「汽船第6住吉丸 公用航海日誌に記録された衝突事故報告」
船舶番号 88042号
船籍港 神戸港
総トン数 70トン61
航行区域又は従業制限 沿海区域
船舶の用途 鮮魚運搬船
主機の種類及び箇数 ディ-ゼル機関 1箇
主機の出力 430馬力
船舶所有者の住所及び氏名又は名称
兵庫県神戸市兵庫区匠町28番地 大日水産株式会社
船長の住所及び氏名
兵庫県津名郡北淡町富島627番地 池田嘉四郎
年月日 昭和52年7月31日
事項 衝突
記事
本船は、昭和52年7月31日兵庫県北淡町富島から空船で天草に向け航行中、備讃瀬戸鍋島灯台の南方において衝突(追突)されましたので、以下その事について報告します。
本船が富島を出港したのは7月31日の08:10頃で、吃水は船首0.8m、船尾2.0mでありました。出港後は風もなく鍋島灯台に並行するまでは平穏な航海でありました。鍋島灯台に並行して、つまり灯台の南方、海上迄に進んだ時、15:12頃、後方から本船を追越そうとして航行してきたパナマ国籍のゴールデンキャッスル約6,500トンに追突されました。
追突された時、当直していた者は甲板員の徳永と機関員芝野の2人でありました。私は船橋に居ましたが当直ではありませんでした。追突されるまで誰も相手船は発見しておりません。只芝野が衝突直前、機関窓から甲板に上ろうとして後方を見た時、相手船船首が本船に覆いかぶさってきているのを発見、吃警して操舵をしていた徳永に知らすため、大声で「お-い」とどなったそうですが、その時、相手船の船首が本船の右舷船尾にドシンと追突してきました。
追突された「シヨック」により、本船は大きく左舷側に傾斜して左舷船尾附近が海水をすくい込むと同時に甲板にいた芝野は海中に放り込まれました。また船橋にいた徳永は左舷側の船橋窓から外に放り出されたのですが、窓枠にしがみつき何とか海中転落だけは免れました。
追突後、相手船は速力を落とすこともなく、その儘西方に逃走しました。本船は浸水により左舷側に傾斜していたのですが、転落した芝野を救助しなければならないので、私が徳永に変って操舵し芝野を救助しました。
救助後、本船は浸水がひどく沈没の心配があったので、最寄りの浅瀬に擱座させようと思い、3吋の排水ポンプで排水しながら自力航行で小与島の東側海岸に15:45頃擱座させました。
なお、この間に船舶電話で事故の概要を海上保安庁に報告し、相手船の捕捉をお願いしました。
擱座後、干潮時を利用して損傷個所の応急修理実施し、翌8月1日取調べを受けるため坂出港に回航しました。
衝突による損傷は人損としては、さきに申し上げた通り芝野が海中に転落した外、甲板員田中恒義が後頭部及左肩に軽度の打撲傷を負いました。船舶の方は穴こそあきませんでしたが、推進器のプロペラが3枚共曲損した外、その後方にあるスタンションの上部取付部が破損し、機関室から後方の船底外板全部がシヨックで大きく緩んでおりました。防舷材も船尾及び右舷側が外れておりました。
又、推進器軸取付部、スタンチューブ附近にも損傷を生じており、甲板においてあったロープ、プロパンボンベ、船員の長靴、魚箱、たこの巣等は全部流失して終いました。なお、その外にも損傷はあるものと思われますが入渠しなければはっきり解りません。当時の天候は晴で風はなく海上は平穏で視界も良好でありました。本船の速力は9節で島から100m位沖を航行しておりました。相手船は衝突前汽笛を吹鳴しておりません。
逃走した相手船は海上保安庁が発見捕捉してくれました。船名、国籍等はさきに申し上げたとおりで、代理店は東京のウエスタンシッピングと聞いております。
以上報告します。
備考 本船の用途 鮮魚運搬船
本件(衝突)報告受理
受領印 円形24mm 香川県 52.8.-2 坂出市
追記
鮮魚運搬船の海難事故については、今回掲載している写真の中にも確認できるものがある。HN006~HN008は昭和30年代のもので、淡路島富島・大崎造船所に陸揚げされた鮮魚運搬船の左舷側から右舷側に向けて破壊された魚艙が確認できるものである。船舶番号NS2-2074の住吉丸で、頭文字がNであることから長崎船籍であることがわかる。写真からは淡路の山並みや、丸太材の両面がハツリ調整された木造船用材の宮崎県日向弁甲材が置かれている。HN009・HN010は左舷の一部を損傷したもので、甲板に置かれた装備品(木栓を一括して入れる木箱)や魚艙ハッチの構造がわかるものである。
今回は「航海日誌」「機船機関日誌」を主な資料として活魚運搬船の航路から第6住吉丸の活動範囲を整理した。整理方法としては航海日誌の記事欄に記入されている漁港名、灯台名等と時間を一覧表として整理するとともに、機関日誌とも確認作業を行った。昭和52年1月27日から昭和52年8月2日の期間である。機船機関日誌は昭和52年7月7日から昭和52年7月31日の期間が記載されている。
瀬戸内海における江戸時代の航路は、北前船が代表するように山陽沿岸沿いを通る地乗り航路であったが、活魚運搬船の航路は瀬戸内島嶼部を縫うような沖乗り航路である。瀬戸内海の海図に第6住吉丸の航路を描くと目的地に対して最短の航路を描いている。
さて、航海日誌でその航路を確認したい。
昭和52年1月18日にドックおろし、1月27日(木)8:00長崎県松浦市の星鹿港に向けて富島出港、播磨灘を東進し、11:10香川県小豆島坂手灯台、12:30香川県高松市男木島北端トウガ鼻に立つ男木島灯台を経て備讃瀬戸に入る、14:30香川県多度津町高見島灯台、15:15岡山県最南端六島の小六鼻に立つ六島灯台を経て備後灘に入る、16:45芸予諸島の東に位置する愛媛県越智郡高井神島にある高井神島灯台から、この航路の難所となる芸予諸島に入る、17:35愛媛県今治市伯方島と大島の間にある舟折瀬戸にある舟折岩灯台(灯標)を通り燧灘から安芸灘に入る。なお、来島海峡付近では本線航路から外れて航行していた。本来大きな船は今治沖を通るが、自身の船は小さいので最短の道である伯方島の宮窪の瀬を抜けて航行し、そこから上関を抜けて下関に向け直線コースを移動する。19:30松山市に属する安芸灘中央に位置する安居島を並航し、忽那諸島の中島と怒和島の間にあるクダコ水道に入る、20:20クダコ水道最狭部にあるクダコ島を並航し、21:35防予諸島にある山口県大島郡周防大島町に属する沖家室灯台、22:50山口県熊毛郡上関町にある上ノ関灯台(室津灯台)を通過する。24:25山口県下松市沖の火振鼻灯台(笠戸島灯台)をへて周防灘に入る。富島港を出港してから16時間25分で現在地に達している。(1日目)
1月28日(金)3:15山口県宇部市沖にある宇部本島灯台(宇部本山灯標)から関門海峡に突き出た企救半島にある部崎灯台、早鞆ノ瀬戸に架かる関門橋(昭和48年開通)を通り、下関市竹ノ子島台地にある台場鼻灯台(平成21年2月18日廃止)へて響灘に入る。7:30岩礁も多く航路が極めて狭い倉良瀬戸を通り、9:20福岡市西区、福岡湾の出口にある玄界島を並航し、10:00糸島半島西浦岬の西方にある灯台瀬(灯台瀬灯標)を並航し、11:15尾形瀬にある尾形瀬灯台(室津灯標)をへて11:35東松浦半島波戸岬にある波戸崎灯台を通過し、13:15長崎県松浦市の御厨港に到着する。山口県宇部市沖から10時間で現在地に達している。(2日目)富島港から約26時間25分、一昼夜走り通して無寄港で目的地である長崎県松浦市の御厨港に至る。
昭和46年(1971年)頃大日水産(株)が長崎県松浦市星鹿町にハマチの養殖場を開設し、事務所を御厨町に設置したのを機に、五島・天草方面への航海時は御厨港を待機、一時休息地となった。船内には風呂が無く待機時間中には銭湯をも利用した。漁協が星鹿港に有ったので通称星鹿と呼んでいた。
昭和48年(1973年)兵庫養殖漁業生産組合(兵庫養殖)が的山大島(あづちおおしま)に漁場を開設した。離島である為、成魚の販売も本土の御厨港或いは平戸口まで生船で運搬していた。
たとえば1月29日(土)~2月9日(水)の期間、御厨港と大島港間を毎日午前中に一往復していることや、7月21日(木)には「ハマチはこび航海」とメモがあり、星鹿港と船唐津港間を二往復しハマチを運んでいたことがわかる。
次に長崎県壱岐、対馬、五島列島、熊本県天草などの少し遠隔地における活魚の集荷状況を確認したい。寄港した漁港としては壱岐島では印通寺港、初瀬港、小崎港、勝本港、対馬では比田勝港、佐須奈港、厳原港、久田港、五島列島では戸岐港、荒川港に天草では満越港、棚底港などに定期的に寄港している。表2の大日水産株式会社天然魚・養殖関連の生船航行先(昭和40年以降)及び図9~図12は、大日水産に保管されている取引先漁協との契約書をもとに、社長日野賀生氏がまとめたもので1965年(昭和40年)以後の活動範囲がわかる資料である。この資料からは大日水産が長崎県壱岐、対馬、五島、熊本県天草を主な取引範囲としていることが読み取れる。この契約書内容と各寄港地との関係を整理すれば、さらに具体的な実態が読み取れるものと思われる。
番号 | 県 | 漁協・漁港 | 主要魚種 |
☆ | 兵庫県 | 富島 | 根拠地 |
1 | 愛媛県 | 興居島 | たこ |
2 | 釣島 | たこ | |
3 | 山口県 | 平郡島 | たこ |
4 | 大分県 | 臼杵・柿の浦 | たこ |
5 | 宮崎県 | 延岡・宮の浦 | いか・雑魚 |
6 | 延岡・島の浦 | いか・雑魚 | |
7 | 延岡市浦城 | イセエビ・雑魚 | |
8 | 延岡・土々呂 | いか・雑魚 | |
9 | 延岡市庵川 | いか・雑魚 | |
10 | 延岡市門川 | いか・雑魚 | |
11 | 美々津 | いか・雑魚 | |
12 | 都農漁協 | いか・雑魚 | |
13 | 川南 | いか・雑魚 | |
14 | 長崎県 | 印通寺 | 鯛・たこ |
15 | 初瀬 | 鯛・雑魚 | |
16 | 渡良浦小崎 | たこ・生貝 | |
17 | 勝本町漁協 | 鯛・青物 | |
18 | 根緒漁協 | 鯛・雑魚 | |
19 | 緒方漁協 | 鯛・雑魚 | |
20 | 豊玉漁協 | 鯛・雑魚 | |
21 | 比田勝 | 鯛・雑魚 | |
22 | 佐須奈 | 鯛・雑魚 | |
23 | 新星鹿漁協 | たこ | |
24 | 船唐津 | たこ | |
25 | 奈良尾 | 鯛・雑魚 | |
26 | 戸岐奥浦 | 鯛・雑魚 | |
27 | 富江 | イセエビ | |
28 | 荒川 | 鯛・雑魚 | |
29 | 布津漁協 | 平目・オコゼ | |
30 | 熊本県 | 大矢野町漁協 | 鯛・雑魚 |
31 | 湯島 | 鯛・雑魚 | |
32 | 満越 | たこ | |
33 | 松楠漁協 | たこ | |
34 | 須子 | たこ | |
35 | 有明町赤崎 | たこ | |
36 | 有明町上津浦 | たこ | |
37 | 有明町島子 | たこ | |
38 | 五和町二江 | 鯛・雑魚 | |
39 | 苓北町志岐 | 鯛・雑魚 | |
40 | 棚底漁協 | 鯛・雑魚 | |
41 | 御所ノ浦 | たこ | |
42 | 大多尾 | たこ | |
43 | 宮野河内漁協 | たこ | |
44 | 葛輪 | 鯛・雑魚 | |
45 | 上伊唐 | 鱧・雑魚 | |
46 | 下伊唐 | 鱧・雑魚 | |
47 | 白瀬 | たこ | |
48 | 白瀬 | たこ | |
49 | 薄井 | たこ | |
50 | 鹿児島県 | 山川 | 鯛・雑魚 |
51 | 大泊 | 鯛・雑魚 | |
5 | 宮崎県 | 北浦 | 養殖漁場 |
6 | 島の浦 | 養殖漁場 | |
7 | 浦城 | 養殖漁場 | |
23 | 長崎県 | 星鹿 | 養殖漁場 |
24 | 船唐津(フナトウズ) | 養殖漁場 | |
32 | 熊本県 | 満越(ミチゴエ) | 養殖漁場 |
33 | 樋合(ヒアイ) | 養殖漁場 | |
52 | 兵庫県 | 淡路・由良 | 養殖漁場 |
53 | 家島・西島 | 養殖漁場 | |
54 | 大分県 | 津久見・千怒(チヌ) | 養殖漁場 |
55 | 津久見・赤崎 | 養殖漁場 | |
56 | 津久見・仙水 | 養殖漁場 | |
78 | 的山大島(アズチオオシマ) | 養殖漁場 | |
6 | 宮崎県 | 島の浦 | モジャコ |
57 | 静岡県 | 沼津市・江の浦 | モジャコ |
58 | 三重県 | 古和浦 | モジャコ |
59 | 徳島県 | 椿泊 | カンパチ・ハマチ |
60 | 鳴門 | ハマチ中間魚 | |
61 | 北灘 | ハマチ中間魚 | |
62 | 香川県 | 鴨庄 | ハマチ中間魚 |
63 | 志度 | ハマチ中間魚 | |
64 | 高知県 | 浦戸・御畳瀬 | モジャコ |
65 | 浦ノ内 | ハマチ中間魚 | |
66 | 藻津 | ハマチ中間魚 | |
67 | 大海 | ハマチ中間魚 | |
小筑紫 | ハマチ中間魚 | ||
栄喜 | ハマチ中間魚 | ||
68 | 泊浦 | ハマチ中間魚 | |
69 | 橘浦 | ハマチ中間魚 | |
70 | 安満地 | ハマチ中間魚 | |
71 | 柏島 | カンパチ中間魚 | |
72 | 愛媛県 | 久良 | ハマチ |
73 | 三瓶 | ふぐ | |
74 | 鹿児島県 | 甑島 | モジャコ |
75 | 牛根 | ハマチ中間魚 | |
76 | 種子島・浦田 | モジャコ | |
77 | 長崎県 | 阿翁浦 | 養殖たい・中間魚 |
図9 伊予灘・豊後水道・宿毛湾・日向灘における天然魚・養殖関連の生船航行先
図10 西海地域(対馬・壱岐島・五島列島)における天然魚・養殖関連の生船航行先
図11 天草諸島周辺・鹿児島県下における天然魚・養殖関連の生船航行先
図12 太平洋岸域における天然魚・養殖関連の生船航行先
航海日誌にメモとして残された取り扱い活魚としては、5月14日(土)「タコ小崎(壱岐)1,225k タコ1」5月15日(日)「勝本(壱岐)7 印通寺(壱岐)12ケ タイ12ケ タコ8ケ タイ6ケ 平(ヒラメ)1ケ」5月21日(土)「平め1ケ タイ4ケ タコ5ケ」があり、取引されていた活魚がある程度わかる。また、7月31日(日)追突事故報告書には富島港から天草に向けて航行中に追突され、甲板に置いてあったロープ、プロパンボンベ、船員の長靴、魚箱、たこの巣が海上に流出したことが記載されている。この中に「たこの巣」の名前が見られることから、おそらく天草には活ダコを集荷に行ったものと思われる。
基本的に航海日誌から読み取れる経路は、往路、復路ともに富島→星鹿→垂水港→富島の瀬戸内経路が基本的なコースではあるが、復路として佐田岬から豊後水道を通り宮崎県延岡市北浦港に寄港し足摺岬、室戸岬から垂水港に至る土佐廻航路を2月中頃~3月中頃にかけて3航海行っている。四国沿岸を東進する黒潮の潮流を利用して復路としている。高知県内には大日水産との取引漁港はない。しかし、時化る場合があるためか3月下旬には北浦港に寄港したのち土佐廻航路に乗らず、佐田岬を経由して瀬戸内経路を復路として垂水港に寄港している。
ただ当時の出荷場所としては、昭和30年代までは船で輸送してきたら神戸市中央卸売市場HN025・HN032・HN033や大阪中央卸売市場HN001・HN002・HN017に直接持ち込んでいた。しかしその後、公害で水質が悪くなってきたことなどで神戸市中央卸売市場に持ち込みの魚を活締めした後、神戸で売る分とわけ大阪、京都の分はトラックで輸送していた。昭和40年代になると垂水漁港が中継保管基地として整備されたので生簀HI044・HN102・HI113を設置し、そこを出荷基地扱にした。垂水に魚を下ろした後は船を淡路島に戻すようになった。