日野顯徳氏の養殖業と生船活用

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 昭和20年代まで戦争の影響もあり、瀬戸内海でも漁が出来なかったので魚が沢山生息していた。戦後は漁獲高が高かったが乱獲が進み、魚が減少の一途を辿っていた。その背景もあり国の推進も後押しし、昭和35年に養殖業に乗り出した。その養殖魚を活魚として運ぶための運搬船として運用するために生船を製造していた。最初は淡路島洲本市由良で始めたが昭和35年と36年の2年連続で台風の被害を受けて仕切網方式を断念し小割網方式に転換した。瀬戸内海での養殖は冬だと水温が下がり、ハマチが生息することができない。そのため、春に稚魚を入れ大きくし、正月前後には売り切ってしまう養殖スタイルであった。年を越して越冬するためには水温が10度以上いる。そのため九州に取引先や漁業組合の知り合いもいたため宮崎県延岡市市北浦港がいい場所じゃないかということで養殖を始めた。当初、1年物は活魚で神戸まで輸送し出荷していたが、養殖が2年物でブリに成長すると活魚よりも氷蔵で売るスタイルへと変化する。そうなると生船が要らなくなってしまった。そして、生船を運用するにしても船員が高齢化し乗船できる者がいなくなってきた。また、生船よりもフェリー乗り等の他の方が環境も待遇もいいため人手不足となっていったこともあげられる。