改めて船大工になったころ

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 戦争で召集され14歳(昭和20年頃)から海軍飛行予科練習生となった。強制的に試験も受けに行き、1次試験は淡路の郡家で、2次試験は洲本で、3次試験は愛媛県松山(1週間ほど)で徴兵検査を受け最終的に2・3人になっていた。空襲も激しくなったことから和歌山県高野山に移動した。その当時、18か所ほどの寺は全て軍隊が常駐しており、自分は中学の寄宿舎に入っていた。高野山では飛ばない小さい飛行機に乗り操縦の訓練などを行い、新兵教育後は鹿児島県鹿屋に行く予定だったが高野山の橋本で終戦を迎えることとなった。その後、一旦高野山に戻り、昭和20年(1945年)9月初めのころに淡路島に帰還した。戦時中は大崎造船所では、職人が40名程残っていたので木造の上陸用舟艇を作っていた。しかし阿部造船所は職人が7人程しからおらず造船の仕事は行っていなかった。戦後2・3年は新造船の依頼はなく、木造の漁船や貨物船の修繕を行っていた。その中には生船はなく、最初に生船を手掛けたのは昭和20年代後半(19歳~24歳頃)であった。