戦後の船大工として

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 基本的には船大工の仕事を行っていたが、常に仕事があるのではなく手が空いているときは様々な仕事をしていた。その中には、昭和30年(24歳)頃は神戸で、アメリカから砂糖を積んでくるような鉄鋼船の船倉の中央に仕切りを作る仕事を行っていた。他にも大阪の天保山で小さな連絡船を作っていた。
 父親に弟子入りをしたが「仕事は盗み見て覚えるもの」と言われ、父親の仕事をまじかに見ながら仕事内容や技術を覚えた。自分も弟子には教えず、盗んで覚えさせた。船大工道具は自分専用の道具箱があった。引退後は鉄工所に道具箱を置いていたが、阪神淡路大震災のとき鉄工所も被害にあいその後、富島造船所の中に仮設が建ちその中にみんな道具を置いていた。しかし現在は綺麗になくなっているので、誰かが持って帰ってしまったのではないかと思う。
 船の建造中は道具箱を持って帰ることはなく置きっぱなしで、道具をきちんと片付けることもなかった。造建中の船に隠して置いて帰っていた。当初道具箱には鑿とカンナ・カナヅチが入っていた。ノコギリも手動だったが後に電動に移行し会社から支給される形になった。大崎造船所時代は電動の道具を使用していなかったが、富島造船所では昭和40年頃(34歳頃)から電動丸ノコ、カッター、チェーンソーなどが導入されるようになった。特にチェーンソーは大事で、昔は大きなノコギリで二人がかりだった作業がチェーンソーの導入で作業が楽になった。しかし、電動の道具を使うのは木材を引くときだけで、船の細かい作業をするときはほぼ手作業で行っていた。造船所には船大工が30~40名、製材を行う人が5~6名、目立てを専門とする人が在籍していた。木挽きを行う人はその作業をするときだけ来てもらっていた。