山九で明石型生船を造船し始めたのは昭和37.38年頃。それまでは大崎造船所で造船していた。また他にも淡路町の岩屋には、東根、大徳と明石の宗田が造船していた。富島造船所は当初発注していた大崎造船所の閉鎖に伴い造船に着手した。山九はもとよりその親戚一同が大崎造船所より船を発注購入していたため、大崎造船所が無くなると生船の発注、修理ができる場所がなくなるので、日野顯徳氏の代に大崎造船所の船大工を全員、富島造船所に雇い入れ造船部門を創設した。いつ頃という確定はないが、昭和37.38年ごろに大工道具を購入している形跡があるため、その頃だと思われる。富島造船所で造船し始めてから大型船、小型船を合わせて約30~40隻ほど造船した。生船だけではなく餌船も造った。造船台帳は阪神淡路大震災の被害で事務所が荒れ、調べたら出てくるかと思われるがどこにあるかは不明。本社は神戸なので売り上げなどは残っていると思われる。