造船の依頼から進水式

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 新造船の依頼が来たときはまず契約書を交わす。船の大きさや形、どこのエンジンメーカーのタイプを入れたいかとか、エンジンは船主の支給等を書いている場合もあった。また造船所が一括して決めるか、船主が決めるかはその都度変わっていた。エンジンは船がある程度出来上がってから搭載した。造船依頼の顧客リストのようなものは作成していなかった。板図(聞き取りでは図板と呼んでいた)は船を造るための正式な設計図はなく、船首を左側に向けた縮尺10分の1の板図を棟梁が書く。作業が始まったら、板図を頭に入れて造船していた。キールの長さを決めることでそれが基準となり他の部分のサイズも決まっていった。板図は全て置いておくが、その船の造船が終わったあと板図の面を削り、次の船の板図を書くのに使用した。基本的に設計図は作らないが、船主側が依頼をすれば設計図も制作していた。ただし、丸づくり(洋式船)は造船が難しいため図面(船首を右に向けた図面)を引いてた。昭和30年頃(24歳頃)は洋式船の船も作っていたがほとんどは和船板作りであった。板作りで図面を引かないのは、造船の過程で曲がったところにあてがって作っていくので設計図を作ったとしても大きさに差異が生じるためであった。
 なお、紙の設計図について様々な経緯があるが、作る船が貨物船か漁船かで性能の基準が変わってき、規約も変わってくる。一定のトン以上のものは免状が発生してくる。漁船は海域が広いため基準が厳しい、貨物船などは漁獲する必要がなく沿岸からそんなに離れない為、漁船資格より貨物船資格の基準が緩かった。『漁船第224号明石型木造99トン型活魚運搬船「第8大丸」財団法人漁船協会462頁』1979.12には「本船は漁船であるか、貨物船であるかについて担当海運局において取扱いに苦慮された経緯があるが、現在のはまち・たい等の養殖漁業の実態から、自ら養殖漁業に従事する者の所有するこのような船舶は漁船(漁船特殊規程にもとづく第1種漁船)として取扱うこととなった。(昭和54年3月27日付首席船舶検査官通達・漁船第221号P.82参照)の記載があるので参考となる。
 

第8大丸 一般配置図(漁船第224号より)


 第8大丸 中央横断面図(漁船第224号より)

 積算(見積もり)は船大工の棟梁が行い、会社が何掛けかして船の価格を決めていた。昭和56年(50歳)に造船した大日水産株式会社所有船は1億2000万で、大きさは100尺99トンであった。どんぶり勘定であったため、他社が依頼してきた際の利益は分からない。ただ事務方が把握していたのではないかと思う。木造船は良い材料を選ぶと価格は高くなった。この大きさの船であれば半年ほどで完成した。注文が複数あるときは船を横に並べて同時進行で造船作業を行っていた。
 船の舳先には唐草模様が彫ってあった。これは船主の依頼で、船大工の棟梁がデザインを決定し彫りも行なっていた。模様は100年ほど前からあり幾つかの種類があった。鉛筆で書いてある元紙から写し取り彫っていた。先に彫っておき船が完成してから最後に船に貼り付けていた。山九は一富士二鷹三茄の模様であった。
 起工式では、毎回同じ淡路市石田にある富島八幡神社の神主さんをよんでお供え物をして、造船所の人全員で安全祈願を拝んだ。その際船主はいなかった。神社は阪神淡路大震災で潰れてしまったが現在は再建している。大崎造船所の頃も富島八幡神社にお願いしていたと思うが、50~60年前のことなので定かではない。
 進水式は大安の日を選び神主さんをよんで行った。事前に神棚や船魂さんを作っておき進水式の際に、神主さんが儀式を執り行う。船魂さんを安置する場所は船の中の船員が寝泊まりする部屋の上部に設けてある。船大工が外側を作り神主さんが宗教儀式(祈願や船魂入れ)を行った。船魂さんは人形や髪というものではなかった。最後にもち投げ(餅まき)を行っていた。進水式が終わると小さい船は港の中で右回り3周ほど回るというのを行っていた。大きい船は港内で回ることができないので港の外で回っていた。その際には船主が乗船していた。その後は、船主や社長が提供してくれた御馳走を皆で食べた。またご祝儀も受け取っていた。一般の大工はまとめてもらって分配してもらうが、棟梁は別に受け取っていた。内容(金額)は忘れた。