船材である板は、宮崎県飫肥や岡山牛窓町の高祖材木店、淡路福良の土井木材、神戸市の清水木材から木材を仕入れていた。土井木材店からは欅材やタブ材といった堅く大ききのある木材をトラックで仕入れていた。欅材は船の上部に主に使用していた。たとえば生間のハッチ部分や、時化における海水の排水路、甲板の両舷側に設けた柵にあたる舷墻などに使用していた。
高祖材木店(「木の店無垢有限会社高祖材木店」ならば現在も牛窓にある。岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2234-10)
土井木材(「土井木材株式会社」南あわじ市福良甲1530-3)
外板(敷板・棚板)には、宮崎県日向産の弁甲材を使用していた。弁甲材は岡山県牛窓の高祖木材店から仕入れていた。高祖木材店も九州から仕入れていたのではないかと思う。大崎造船所の時は九州から持ってきていた。大型の木造船に使用するものは長大であり、トラックに積み込めないため筏に組んで九州から直接に大崎造船所に引っ張ってきていた。その際は丸太ではなく、すでにひいた板材であった。富島造船所は牛窓から仕入れていた。仕入れる木材の長さは一番長いものから四尋、五尋、六尋、八尋という長さがあった。一尋は5尺(約150cm)で八尋は長さ40尺(約1,200cm=12m)、幅は三尺(約90cm)ほどあった。HN006は昭和30年代の富島大崎造船所で事故を起こした住吉丸の前に多数の弁甲材が置かれているのがわかる。伐採後1年ないし2年程度乾燥させたものを使用し、白太部分は落としておかないとすぐに腐ってしまうので、赤身部分を使っていたので高価であった。貨物船には白い所も全部使っていた。
弁甲材は見ると直ぐに分かった。それは丸太そのままではなく両面の上面を軽く削り、節をとってあるものだった。なぜ削ってあったのかは船大工は知らなかった。製材所で引くときはバンドソーで行って板材にしていた。造船する上で弁甲材は有名な木材で、油気が多く弾力性があり腐食に強く、最も焼き曲げに適した木材であった。製材したものは素人目で見てもわかるぐらい赤く違いがあった。弁甲材は一度にどれだけ仕入れていたのかは不明。作る船の大きさが昭和40年(1965年)頃から小さい船もどんどん大きくなっていき、そのため1枚で済んでいた部分も2枚3枚とひっつけていけなくなったため、板の必要枚数も増えたので一度にどれだけだったのかは一概には言えない。
木材の購入は社長である日野顯徳氏が購入していたため幾らしていたかは分からない。木材の中でも欅が一番高価であった。他にも節がない檜も使っていたがこちらも高価であった。大きい船であれば生間の場所だけで40尺(約12m)もあり、船倉の上はほとんど檜を使用していたため、船自体も高くなる傾向があった。米松(俗称アメリカ)はキールと戸立(生間の仕切り)で使用した。昔はキールの厚みも5~6寸であったが大きな船になる1尺(約30cm)の厚みがあった。
船釘やボルト類は広島県から、船大工道具である摺り合わせ鋸、鍔鑿、鑿、鉋等は主に兵庫県三木から仕入れていた。マキハダは富島造船所の初めの頃は使用していたが、次第に接着剤(木工用速乾ボンド)を使用するようになったが、生間と船底とのトダテ接合には今でもマキハダを使用する。マキハダは注文をして送ってもらうもので直接の買い取りはしていなかった。昭和20年代(1945年)まではマキハダや船釘を小さな貨物船で船商いに来ていた。この人物とは船の保存の件で話したこともある。