濱口実右衛門(徳太郎)氏より聴き取り

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 明治20年生まれ、明治36年、17才、父と小出買船創業、親類の経験者、濱口彦右衛門・一彦氏(本宅の西隣り)。徳島県鳴門行き、帆船、夜は換水の為、土俵を柱に吊り下げゆさぶり、交替で眠った。神戸駒ケ林沖で南強風に転覆し、浜に打ち上げられ問屋衆に救助された。船員が下痢して止まらず、淡路島福良港の医者に診てもらったらコレラの疑いありと警察署より、港内の小島に繋留命じられた。翌夕着、富島に電報打った。しゅんさんが歩いて来た。陸から生水、生物食べるなと毎日叫んだ。コレラで無くて、快復、解放された。小学生の時(浅野)、しゅんさんが唐(カラ)と戦争が始まったと云いに来た。日清戦争。明治27・28年。
 小出買いの以前は、父と小帆船で小豆島のサツマ芋、和歌山のミカンを仕入れて荷車で近隣の村迄、行商に行っていた。イヤだった。小出買も商売は中々大変だった。売場は主に神戸市駒ケ林市場と新川魚菜市場で売った。安治川を上れないので、大阪雑喉場市場に売れなかった。実右衛門氏は、大出買いはしなかった。大出買いは岡山県下津井、香川県多度津西沖迄、営業進出した。広島県鞆の浦沖迄進出。夏季、無風が多く上りに難渋した。そこで富島の大出買組の発案で大阪より曳航(タグボート・蒸気エンジン)を用船し、(電報で)5隻位の船団を組み安治川の雑喉場市場迄、曳航してもらった。帰途は帆走で淡路迄、帰ったが岩屋で潮待ちして、それでも難渋した。□□□あたりでは農家の牛を雇って浜でロープで曳いてもらった。
 明治36年(1903年)、大阪で第五回内国勧業博覧会が開催された。その時、安治川で発動機船の初のデモンストレーションが行われた。アメリカ・ユニオン社製のエンジンであった。単気筒、ピストン1個なので排気音かポン・ポンと聞こえるのでポンポン船と云う。振動は大。2気筒はドコ・ドコと聞こえる。40馬力以上、振動は中。3気筒はドロロン・ドロロンと聞こえる。振動は小。(富島で3気筒120馬力、きしろ鉄工、阿部造船で70尺の巨大船、1号住吉丸、昭和6年製、初めてであった。浜口氏だけが建造した。昭和20年(敗戦迄)、同上1隻だけであった。)
 明治38年(1905)、明石の中部幾次郎氏が12トン、大阪の清水鉄工所で製作し有水式燒玉機関(単気筒8馬力)、同・金指造船が搭載。小杉造船で(洋型船)第1新生丸を建造した。実右衛門氏は中部氏と出買仲間で親交があったので、建造中エンジン据付手順等、阿部造船さんを同行して熱心に見学、学習した。燃料は軽油で高カロリーで焼玉が過熱、赤熱しすぎるのを防ぐ為、シリンダーカバーの側面から淡水を少量ずつ点滴注入しなければならず、淡水タンクを必要とした。活魚槽の前端部に隔壁を増設して、大阪雑喉場の安治川で川水を満水して溜めた。ブリッジ前の活魚槽(大間と称す)に川水を満水にした。下り航、大間の淡水使用、上り航に前端部魚槽の淡水を使用した。機関室上部甲板上の小淡水タンクに淡水を運ぶのに難渋した。実右衛門氏は、神戸市長田区東尻池に在ったガデリウス商会(貿易商)と、スウェーデン国ボリンダー社製単気筒15馬力のエンジン購入契約をした(農水省に記録存在)。阿部造船は和船式しか建造できないので、その船尾構造「スターンチューブ推進軸管」と舵の作製研究に没頭された。
 ここで小出買、大出買船に就いて詳記する。富島では鑑札が発行され、その所有者のみが出買いを許可されていたが、買受けた魚は京都に送ると、船主が弟を鳴門市小鳴門堂の浦に定住させて、活簀場を設置し常時、買付けしていた。淡路福良港にも有った。明治維新でこの鑑札制は廃止された。明治に入りこの技術・営業を継承した人達が小出買業を自由に営業する様になった。当初は鳴門、福良港方面に集中して営業していたが、商材不足となったので、ひとまわり大きい大出買船(約15m、4名乗り)を建造し岡山県下津井港、香川県坂出港沖へ進出営業展開した。更に「燧灘」へと進出し先述のタグボート曳航方式を発案、実行したので安治川を上り低い橋の下を通り、雑喉場市場で販売できる様になったのである。註:現大阪中央市場、北詰めの端建蔵橋(はたてくらばし)。現在でも低い。
 大出買船は2本柱で、主帆2枚、三切り帆1枚(船首用)、5名乗りで朝鮮釜山港のより東岸を北上した海域で打瀬網漁(底曳網)で、良質の大ヒラメを沢山漁獲した。解体した竹活簀を現地で組立て設置した。年末売りに大ヒラメを満載し船団を組んで大阪雑喉場市場で、高値で販売し多利を得た。
 

大阪雑喉場市場の位置

 出漁者
  日野常吉氏(山五郎) 宗和由藏氏(孫七) 宗和喜三郎氏(力三) 浜口政一氏(竹藏) 倉本浅治氏 栄丸
 淡路島育波室津から3隻。柿本氏、浜田氏。仮屋から3隻出漁した。明治末期から大正7年頃迄出漁した。別に現地でヒラメ買付けだけした船主もいた。勇敢で偉大な先駆者達であったと感銘を深くする。その頃、兵庫打瀬(神戸市長田区)、大阪泉州打瀬(岸和田市、泉大津市)も出漁していた。
 出買船は漁場で帆柱の頂上に大漁旗を1枚掲げる、これが出買船の印しである。午後から夕方にかけて漁船が集まってきて、魚を見て値決め、検量、代金支払いをする。その日に獲れた魚は粗魚(アラウオ)と言う。低水圧で弱っている、3日飼いならしが必要。鯛、スズキはアラウオで積むと大阪着迄に全部死ぬ。集荷買付けが終わると、島かげで潮流の有る場所を選び投錨泊する。活簀槽の酸欠が大問題である。船底に開けた多数の自然換水口から、海水の出入りをさせる為、帆柱の上に土俵を吊り上げ、片方のロープを土俵に取付け船首に固定、土俵を取付けたもう1本のロープを引張り、船をローリングさせる。交替で不寝番をする。酸欠は魚を全滅させる。著者、若年時、多数回経験した。土俵ではなく和錨を使用した。徹夜したこともあった。活簀槽が満杯になると小出買船は帆走で神戸へ着き販売する。
 大出買船はタグボートに曳航され、大阪港外で活魚〆(シメル)作業終え、又曳航されて安治川を上り、帆柱2本を倒して「はたてくらはし」の下を通って「雑喉場市場」へ向う。岸壁では各問屋(個人経営)が高張り提灯を(屋号入り)何本も立てて「ウチの船はここじゃ、ここじゃ、ここじゃ」と若い衆が叫んで案内していた。電灯開通以前である。当時「雑喉場市場」には、仕切金の尻切り2割~3割の悪習があった。販売手数料1割、歩戻し金1割であった。荷主は最終幾ら、尻切りされているのか解らないので、何時も摩擦が絶えなかった。
 明石市の大出買船林久丸、林田正一も富島組に頼み込んでタグボートに同時曳航してもらった。明石市の中部幾次郎氏も富島組を見習って単独でタグボートを利用した。活魚槽の海水は荷桶や手桶でかい出した。立栓で自然換水栓口を潜って塞ぐ。
 さて、濱口実右衛門氏の船体はやっと完成した。阿部造船は工夫を重ね精魂を込めて完成して下さった。ところがエンジンの神戸到着が大幅に遅れたのである。実右衛門氏は駒ケ林魚市場に入港する度、割りと近いガデリウス商会に歩いて催促に行った。アメリカ人の据付士スミス氏が先に富島に到着した。旅館に宿泊してもらった。肉の入手に困った、各地から少しずつ入手した。
 スミス氏が毎日、何もする事がないので手持無沙汰となった。これも困った。丘陵地の溜め池に鯉、鮒釣りに連れて行ったら沢山釣れて、スミス氏もとても気に入って毎日釣行きで機嫌良くなった。やっとエンジン到着、クレーンの無い時代なので、据付けは難作業となったが完成した。「雑喉場市場」手前の「はたてくら橋」を通航できる様に、マストはボルト1本抜くと倒せる様にした。ブリッジも上部窓ガラス部を分離枠にして、4名で取り外しできる様にした。煙突(フアンネル、エンジンの排気管)も下部は蝶番式で倒せる様にした。高知県から機関士を招いた。
 明治44年春、浜口実右衛門氏の二1号住吉丸は竣工した。先ず、愛媛県松山市北西沖の中島町に進出した。中島町附近は鯛の好漁場で、延縄1本釣りの鯛が多量に獲れており多忙な航海となった。波静かな港内の生簀で粗魚(あらうお)を3日間飼いならした鯛を運んだ。発動機船を建造すると決定した時、富島の出買船(帆船)の人達は皆、エンジンの音と振動で、鯛の眼球が飛出して全部死ぬだろうと口々に言った。註:「アコウの胃が口の外に飛び出す」とも言った。がそれは杞憂に終った。下活け(しもいけ、今治以西)の鯛は大阪活き着率6割、〆鯛(氷詰め)3割、目切れ1割である。冬活けは宇和島のイカ積みに行った。
 大正5年頃になって欧米から技術導入して、神戸市、明石市方面の地場の小鉄工所が有水式燒玉機関の国産化製造を開始したので、発動機船は急速に普及拡大していった。大正末期頃、無水式燒玉機関2気筒が製作される様になった。実右衛門氏は早速、ダブル(2気筒)60馬力のもろて鯖巾着網船団を調達し、朝鮮東岸迎日湾を漁場で操業を開始した。昭和元年頃である。現地責任者は浜口好氏である。後にもう1船団を増やした。三木角一氏も1船団を操業した。実右衛門氏は最初に発動機船で朝鮮のヒラメ買付けに進出した。同氏は昭和6年建造の1号(3気筒)住吉丸を賞で、いとおしみ、自ら船長として何年も朝鮮航海をした。
 昭和12年、富島水産株式会社設立時、実右衛門氏の所有船は11隻に達した(鯖巾着網船団を除く)。三木角一氏の所有船も略10隻位だったと聞いている。昭和14年4月、鯛を神戸魚市へヤミ値で売った。日野嘉右衛門氏、三木角一氏が経済統制令違反容疑で、兵庫警察署に拘留された。ヤミ取引である。この時以後、富島水産会社は事実上営業停止となり資産も少なく、土地(本社、製氷工場、修理鉄工所)と動産の活魚船隊だけである。給料の支払いは、いち早く停止された。活動出来ないままに大型の良い船から軍に徴用され、85隻の船は敗戦時、ボロ船ばかり7隻が残された。小規模営業の1隻、2隻、船主の人達は当初から会社などうまく営業できる筈がないと相手にならず、会社に加入しなかった。その船主達はあきらめて、いっせいに船を売却してしまった。父は東の丁、東根壮四郎氏の東栄丸を買収し(新しく60馬力良船)慶尚南道統営で大活躍させたが、昭和17年春、海軍に徴用され上海に行ったままである。時代が悪かった。富島じゅうが貧乏した。
 

明石型生船の船尾船底構造

 追記
 顕徳氏の話し。嘉右衛門家の船は下関をくれて、顕徳氏の船が先回りで積むので、にいやんや、春義によくおこられとった。水産会社になる迄、統営の春義の蛸、多大な利益を得させてもらった。昭和10年頃、日野豊昭氏が家族連れて統営で借家して住んだ。日本水産の元部長和田氏が独立して広洋水産を設立、大崎造船で長25mの巨大船2隻を建造。日野豊昭氏が和田氏に引抜かれて、統営の春義氏の浜に割り込みをしかけたのである。豊昭氏にとって父春義は手強く競争できる相手でなかった。失敗して西方の麗水港方面へ転換し、浜を求めて家族共、引越して行ったが最終的には成功しなかった。
 詳記
 父春義は2号の機関長として、蛸壷を満載して現地の人に貸与して、その漁獲した蛸を買付け集荷する新業務を初めて着手した。きわめて困難な業務であった。船長は沖氏、機関長は春義、助手兼飯炊き崔尚現(チエ・サン・ヒョン、日本語少しだけ話せた)3名乗組んで毎日、生簀場で買受時に立会い指導した。検量後、蛸は団子状にカラミ合った状態で、そのまま団平内に入れると、その団塊は解けぬまま全部、自呼吸が出来ず酸欠死するのである。手間はかかるが1匹ずつバラ、バラにして団平(ダンベ、木製箱型生簀)内に入れてやるのが鉄則である。冷寒時、ゴム手袋の無い時代で辛い仕事であった。団平の清掃、自然換水口(巾5ミリ、長100ミリ)に小海草が生えて換水口を塞ぎ、蛸の全滅死を起す。換水口は数えきれない程、たくさん開けてある。満潮時に数人で砂浜にできるだけ引揚げて、干潮時に浅海に入って棒ブラシや金ベラで清掃するのが必須である。統営には日本人経営の大型銭湯が2店有った。
 連日3名が船内泊り込みで各浜、浜を巡回、指導して廻った。週に1回位、統営に帰港した。諸補給と入浴、税関提出の通関届書の作成は大手の亀谷回漕店の指導を受けた。新生簀場の設置も毎年増加するので巡回指導を続けた。冬期、週1回の入浴と狭い船内生活を何年も続けて3名が頑張った。富島との電報連絡、買付代金の支払い、各管理人の管理業務、通関届書の提出、この超多忙の業務を遂行した。
 2号は、父が頻繁に営業、航用に使用したので老朽化も早く、後年、現地で売却処分した。昭和9年、父は間借生活していた。1戸建ては借られなかった。昭和10年、父は、淡路から渡朝してくる家族の為に1戸建を借りることが出来た。亀谷回漕店の斜め前である。イリコ商で成功者の旧宅を借りた。1階半分は他店舗に貸し、半分に8帖3間、台所、寝室付。池付きの立派な広い前栽あり。2階は全部借りた、10帖(2間床、書院付)と6帖2間である。
 昭和58年、統営市を訪問した。恩師、同級生、喜美代姉も同行した。母校の小、中、高校も訪問。元の借家の2階へ上がらせてもらった。10帖の床の間に立派な食器棚が置かれていた。あの立派だった前栽は取りこわされ住宅が建てられていた。文化の相違。この時、事前に連絡を取っていた父の番頭、崔尚現氏(亡)の長男、崔昌模(チエ・チャン・モ、漁業組合長)を訪問して組合長室で筆談をした。彼は中学生だった私をよく記憶しておった。私も彼が幼児期から、祖母に連れられて、遠い村からよく父宅を訪ねてきたのを記憶していた。昭和20年、敗戦時、小1年だったとのこと。平成5年、崔昌模氏が来日、大阪へ来られたので神戸へ招待、マイカーで六甲山、ポートアイランド等案内、貿易センター25階のレストラン「バーグ」でディナー会をしました。崔氏の先輩で日本語の上手な方を同行していましたので、戦前の彼の知らなかった話を沢山してあげました。とても喜んでくれて楽しい夕食会でした。年賀状交換しています。
 嘉次右衛門家族は昭和20年9月10日、現地の人の漁船(用船)で富島港着です。父は残務整理の為、朝鮮に残留した。引揚家族は6家族、殆んど女性、子供なので父の指示で水先案内人として崔尚現氏(チエ・サン・ヒョン)を乗船させたのである。途中トラブルが2回起きたが崔氏の才と智で解消して、無事帰国出来たのである。深夜、宇部沖で沈没船のブリッジ上部に座礁、崔氏と逸夫が潮汐計算したら後2時間は潮が引く、左舷側に大傾斜した。男性は全員、右舷外下の防舷材の上に立って並んだ、婦女子も全員、右舷甲板に移動させた。ようやく転覆を防ぐことが出来た。山口県上関町南沖で機関故障、漂流、南風強く大きくローリングしていた。夕刻になってやっと近寄って来る機帆船を発見、逸夫が手旗信号で救助を要請したら相手船が手旗応答してくれて、上関港迄、曳航してもらって救助された。
 昭和20年10月初め、統営に残務整理の為、単身残留していた父の元へ、深夜ひそかに崔氏弟が知らせてきた。「外国人が団結して暴動を起し、日本人成人男性を拘留監禁する準備をしている。親方危ないから早く脱出して」とのことである。急いで4屯位の韓国漁船をやとって対馬迄脱出した。その直後、暴動が発生し、その通りとなった。父は、対馬から博多へ渡り列車を乗り継いで富島へ帰宅出来た、10月中旬である。