日野嘉右衛門家 活魚運搬船業創業記録書 聴取、覚書 平成13年11月 日野逸夫記

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 父は、昭和16年、広島鰛網(イリコ)組合に加入し、早速、多用途仲積船を新造し、毎土曜午後、私(小4)を造船所へ連れて行き、構造、木材の良否の見分け方の伝授に努めた。広島鰛網組合は音戸町出身者ばかりで、良質高価なイリコを大量に生産し、財を成した成功者が多くいた。特徴は大釜2個と薪を満載した大型釜船を使用した、即ち浜辺で2隻の網船で囲んだ網の中に片口イワシを泳がせたまま、釜船を横付けして活きたままの片口イワシを釜に放り込み、地ごく茹でするのである。銀色に光りオナカの方にくの字に曲がるのが逸品である。大丸ザルに入れ、巧みに山盛りに仲積船に満載し、干場に帰港、戦場の様になる。積み残したら又積みに行く。干場の土地を買い入れ工場棟、居住棟も新築した。父は仲積船で寝泊した。朝は午前4時に起き、午前5時投網する。従業員は漁場40名、干場10名(外国人ばかり)。番頭は崔尚現氏(チエ・サン・ヒョン)である。崔氏は嘉右衛門家の船に5年程乗組み、大阪航路を学習して航海士ができる程迄になった。干場には電話がなかったので、毎日1回、私が下校後、事務連絡に行った。海底トンネルを通るので、とても遠く、後に大人用の中古自転車で通った。毎日父から、業務指示を受けるのである。父に会えない時は、指示書をもらって帰った。原魚1日2千貫、イリコ(1貫目入り)500俵を漁獲、生産した。間もなく公が制定され1俵1円70銭となったが、それでは賃金も払えないので3円~4円で取引きしていた。
 父は昭和22年6月、1号住吉丸を新建造した(大崎造船)。全長48尺(14,5m、12屯、中古、単気筒30馬力、明石発動機製、オンボロ)イワシトロ箱500ケ積。15kg入りで中味7,5屯、砕氷5屯使用。船価、船体、エンジン、艤装込みで25万円、別に魚買入資金10万円、合計35万円を浜口実右衛門氏から借りた。逸夫は父の強い希望で、旧制洲本中学3年修了後、退学。建造中の1号の艤装作業に参加した。昭和22年末迄は宇和海南部(愛媛県深浦港)、宮崎県南部細島港の方面にイワシ積みに行っていたが、不漁続きで買取り困難で、ヤミ取締りもきびしかった。逸夫は父と昭和23年6月迄、1号に同乗した。昭和23年1月初め、才吉氏船長の8号共和丸(嘉右衛門家の経営)と、そろって父と下関向け富島港を出港し下関漁港着。下関魚市場で魚況調査した。五島方面は魚薄。対馬方面は平戸島、生月島の何船団か操業中の様だが、漁況は不明とのこと。父と才吉氏は相談の結果、才吉氏は五島向け(嘉右衛門氏は7号共和丸で五島奈良尾港在泊)。父は対馬向けと決め、午前3時下関出港、夕方、対馬の陸岸近くにさしかかったところ、旋網船団が大量の鯖を獲っており、運搬船がいないので積んでくれと、徹夜の積込み作業をした。ゴム長靴を下関港で父に買ってくれと頼んだが買ってくれなかった。足袋に下駄ばきで氷槽に入り、クワやスコップで砕氷を大カゴに入れ、甲板口迄、頭上にかつぎ上げた。足が濡れて凍え乍ら、夜食も焚き、交代で食べ、朝となって荷役は終了した。エンジントラブルを克服し、昼は無人島に隠れ、ヤミ摘発を逃れやっと富島に帰港。明石二見港に夜中に荷揚げした。この航海で45万円の利益を得た。
 逸夫は16才だった。エンジンの当直も出来る様になっていた。中学で少し学んだ物理、化学、英語がとても役立った。エンジンの各部名称は全英語。海図の灯台の灯質の内容も全英語。父と私は、昭和23年2月、対馬より鯖1航海して後、五島奈良尾へ行ったが不漁でナグレて、4月初め、イワシ満載して上ってきたが経費もとれなかった。才吉氏の8号共和丸は、正月より4月迄、何も積むことができずナゲレっ放なしであった。父と逸夫は幸運であった。
 昭和24年、父は逸夫に濱口実右衛門氏への返済につき相談した。元金35万円に加え、利息含むお礼金として35万円支払うことに決めた(父子で)。返済したところ実右衛門氏夫妻はとてもよろこんでくれた。同26年頃になって資金的にも少し余裕ができたので、再度、父子相談し、お礼金50万円を同氏に支払った。昭和22年秋には、宮崎細島港でイワシ満載、1航海し並の利益であった。愛媛県深浦港では、半ぱ(6掛け荷)イワシ積み、淡路帰港を断念し今治市大浜の塩見篤氏(日野恵夫人の兄、古い魚問屋)の世話で、来島海峡の中央部の馬島に日中隠れていた。高値で売ることができ何とか食い継いだ。年末迄、とても苦しく精一杯だった。