活魚船史②

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 父は、昭和7年頃、夏期の商材魚を探しに、朝鮮南岸西部方面を調査した。全羅南道、木浦(モッポ)の南、珍島(チンド)の東隣りの筦島(ワンド)である。1本釣りの鯛で、少し小型であったが、商売として成立した。沖隆造氏を選任駐在員として派遣した。同氏は、謹厳実直、有能であった。同氏は紀州のマグロ帆船に永く乗船し、ある冬、北西強風に沖へ沖へと流され幸運にも南風に恵まれ、2昼夜、北に向けて帆走したら八丈島が見えて九死に一生を得た。
 その後、大分県佐伯市の「カジキ突きん棒船」に兄と同乗、五島の西沖、男女群島付近で冬場、浮上したカジキを突きん棒銛でしとめる漁である。視力が良かったので、マスト・トップ見張り用バスケット内で「カジキ発見」と叫んで、赤旗で方向指示したところ、船長が急転舵し、大波に急に船首が持ち上げられたショックで船外に投げ出された。船はそのカジキを仕留めてから、1時間後に救助に戻ってきた。同乗の兄が「あれは泳いどるから大丈夫心配ない」と云った。
 同氏は、妻を亡くし、1人娘を亡妻の妹に託し、嘉右衛門家で働くことになった。統営の父の許で、各蛸浜の管理業務を永くしてくれた。逸夫を、孫の様に可愛がってくれた。夏時期は毎年、莞島(ワンド)へ駐在した。永年、我が家の家族の一員として一緒に生活した。才吉氏と協力して、3姉弟の養育をしてくれた。唯一の楽しみは晩酌だった、統制で酒が無くなった。毎日、夕方前に母からお金をもらって、小さな茶びんを持ってヤミの焼酎2合を、私が買いに行った、毎日である。同氏は、逸夫ちゃんが買ってくる焼酎をとても喜んで、晩酌した。
 同氏は、才吉氏よりおくれて父と相談の上、昭和18年頃、帰国した。淡路へ帰って嘉右衛門氏から、2丁櫓の釣舟(無エンジン)を新造してもらった。昭和21年夏休み、隆造氏の舟に乗せてもらって、もう1老人、博英氏、逸夫は、ベラ釣りに励んだ。家族の唯一の蛋白源が是非必要だった、初心者であったが、1日6kgは釣った。往復、櫓を押すので、腹は減るし、とてもきつかったが、ベラを買う金が無いので頑張った。博英氏は、1日おきに常隆寺へ行った。博英氏もきつかったが、よく頑張った。
 註 ヤミ焼酎は、2合で50銭だったと記憶している。