戦後、活魚船乗 再開 平成13年より筆記開始

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 昭和23年4月1日。鯛、スズキ、ヒラメ等の高級魚の統制が解除された。早速、父1号住吉丸は、鯛を大阪中央市場「大水」で販売した。元、大勘の入江勘三郎氏が、大水社員になってると聞いてたからである。淡路の前の鯛を除いて、瀬戸内産の入港第1船であった。すぐ続けて2航目を水揚げして、仕切金を持っていた父が、息弾ませて、大声で叫び乍ら、走って船へ戻って来た。「鎌定のボン(鎌苅氏)に会った」のである。約10年振り位に再会できた。戦争中の企業合同で、「鎌定」は廃業して大阪魚市場(株)社員で、総務課勤務。堺市の自宅から、自転車にVベルト駆動のミニ・ガソリン・エンジン付きで、通勤しており、冬はとても辛いと言われた。春義さんが、大水に販売したことをとても残念がられた。鎌苅氏は急拠、近海課の副課長に就任し、日野一統の引き込みに、活躍することになる。顕徳氏は素早く、15号(大型新造船)、3号で山口県上関町祝島方面から営業再開した。大水で販売した。嘉右衛門氏は出遅れて、この年、活魚営業は出来なかった。
 同年5月頃、上り航、昼間、丸亀市沖で父が操舵、逸夫が機関当直中に、顕徳氏の15号が、後ろからグングン近付き、すぐそばに並航した時、顕徳氏は、左舷側のブリッジの窓から、こちらを眺めていた。(操舵は森田船長)なんとも云えない複雑な表情を見た。
 その胸中は、朝鮮では、大将してたあの春義氏が、戦前には遂に船主となれず、今やっと船主になったが、ポンポン船だなあ、ようやく、やっとだなあ・・・?の様な感じと逸夫はブリッジの横で見て取った。父はと見ていたら、じっと前方正面を見据えて、右横を見ようともしなかった。サット追い抜いて、見る見る遠去かってしまった。父の胸中を思いやった。
 同年6月、買入れ鯛の量が急激に増え、1号1隻では捌けなくなった。機関部員が急に下船した。(屈強な若者、労働条件がきわめて劣悪)逸夫は、機関当直と3度の飯炊きで、極限の状態であった。父から相談を受け、急拠、用船(チャーター)を探した。幸運にも、直ぐに稼動できる船が、年の内に見つかった。船主、京都市。元、富島の船で、60馬力(木下鉄工)。船長は徳田鹿蔵氏で、兄弟5名で乗船。弥栄丸。
 徳田家は一族で出買船業を永く経営してきた。熟練者揃いであった。京都市の船主とも、用船料も決定した。活魚槽の準備の為、大崎造船へドッグ入りした。嘉右衛門氏は、その情報を素早くキャッチして、「父に協同経営を申し入れた。」父は回答を留保したが、後に拒絶した。
 2隻でフルに航海した。盆売り後、その弥栄丸を買い取って2号とした。直後、父の乗った下り航の2号と私の乗った上り航の1号が、北淡町室津沖で行き会い、双方、停止して接舷、父の短い指示を受け離れて行く時、操舵は徳田船長で、父はステテコ姿で嬉しそうにニコヤカに笑って「気を付けて行けよ」と手を振った。乗船して、30年目にして、やっとダブル(2気筒)の船主となった。
 昭和23年秋、上五島奈良尾港は好漁で、1航で1号15万円。2号25万円の利益計上し、同年10月、3号の新造を大崎造船に発注した。長さ21m、エンジン130馬力3気筒木下鉄工。船価500万円、船体270万円だった。同年末、逸夫は姉2人に宣言した。「洲本高校へ復学し、進学する。船には乗らない」。姉2人は賛同した。同年末、父は下船してしまった。
 昭和24年1月、逸夫は1号の機関長に昇任した。五島からイワシ満載帰港した。陸揚地は、洲本港と決まり入港した。同年3月初旬である、イワシ1箱かついで担任だった、梶田先生宅を訪問した。先生は、「日野君が連絡も無く、退学してしまったので、心配しとった。今なにしてるの?」「五島航路の機関長してます。先生、高校へ復学したいんです。」と言いましたら「それはいいことですよ、復学しなさい、待ってますよ。」と言ってくれた。3号は完成間近かだった。父はすでに、漁船登録証の名儀を、日野逸夫に登録済みだった。逸夫は、多いに悩み、悩んだ。しかし、病弱の父を見放して、復学する事はできなかった。下船せずに、1号の機関長をしばらく続けた。
 昭和23年ころ、嘉右衛門氏は、16号、新造(100馬力、2気筒)した。昭和23年9月、父は、沖隆造氏に声をかけた。「嘉右衛門家の船に乗るか、嘉次右衛門家の船に乗るか、よく考えて選んだら良い。」同氏は、「朝鮮で永く春義さんの家族と一諸に暮らしたので、春義さんの船に乗る」と早速、1号の船長として五島航路で活躍された。同氏は、昭和16年頃、肺炎となり高熱、重篤の病状となったが、医師のトリアノン注射と、日野家族の数日に及ぶ徹夜看護のかいあって、回復した。昭和25年より愛媛県の主要浜、二神島の駐在員として、老齢、引退迄、活躍してくださった。嘉右衛門家では、子飼いの坂東氏兄弟が幹部として活躍されたが、父春義には、沖隆造氏1名だけであった。幸いにも、斗の内の徳田氏兄弟が、営業(買付け・運搬・販売)の経験豊富で、父の幹部として活躍して下さった。
 昭和22年頃から、3号の遭難地点、福岡県遠賀郡岡垣町波津(ハツ)の直近の北沖を上、下航、航海することになった。嘉右衛門氏、才吉氏、春義氏、逸夫、博英氏は、毎航海、犠牲者の冥福を祈った。昭和28年正月、父は家族全員の前で「所有船5隻となり、その性能に於いても、嘉右衛門兄やんを、越えることができた」と、うれしそうに笑った。昭和29年、16号、新建造した。(100馬力、2気筒)小漁港内で、小回り利く様に一回り小さくした。同時に船員保険に加入した。大日水産は、2~3年後に加入した(船員保険)。