養生をしながら、次の収入の事業を考えた父は、打瀬網漁船(無エンジン)1隻を購入した。海底トンネルを渡った、統営市山陽面に岡山村があり、岡山県玉野市から出漁、定住した茂本氏一族が大資本で、1船主が3隻位の打瀬網船を所有し、立派な邸宅に住んでいた。船頭以下乗組員は全員現地の人である。底曳網で春・秋一搬海底魚を獲り、冬は鎮海湾で良質の赤貝を沢山漁獲する。夏は休漁する。次に、統営には広島鰛網組合(任意組合)があり、大正時代に広島県音戸町から出漁して来て、漁場を開拓し、最良質のイリコを大量生産し巨利を得ていた。統営海産会社(イリコ専門商社)が巨大な倉庫を所有し、イリコの買取り、日本への輸出(大阪、広島)していた。知友の網元小川一郎兵衛氏に、組合加入運動を働きかけ、既存網元の個人操業権(網代(あじろ))以外の漁場で操業する、条件付で容認してもらって、早速、準備にかかった。倉庫兼居住棟用地を取得、山陽面のトンネルを通り、出て少し西へ戻った小漁港に面した場所で、新建築した。
漁場で地獄茹でして、丸ザルに入れたイリコを干場迄運搬する仲積船が必要なので、父独自の設計で竹田造船に新造発注した。毎土曜日の午後は、父のお供をして竹田造船へ見学・学習に行き、父はノートに毎週、工程の図解スケッチを書き、部材の良否、施行の精度等を逸夫に叩き込んだ。推進材軸のセンター(芯)を出す為、糸を何時も張って固定していた。やっと完成し、大漁祝旗を沢山掲揚して、香川和菓子店で餅をついてもらい、沢山の人達がお祝いに来てくれた中、盛大に餅撒きをして進水した。船尾側に2、3人用の寝室を造ってあった。父は、この沖積船、住吉丸に泊まり込んだ。
漁場では、午前4時起きの、午前5時投網である。船頭の合図で、2隻の網船から投網し、陸岸(ほとんど砂浜)へ着け、浜側から網を締めて行き、最終は2隻の網船で袋網を抱く様な形態となる。原魚は片口イワシなので魚体が元来弱いのである。網を締めすぎると、驚いた片口イワシが一斉に跳ね上がって湯が沸いた様な状態になると、全部死んでしまう。別の釜船を網船に横付けして、大釜2個~3個、薪を満載し沸かした釜の中に、網中から活きたまま、すくい取った片口イワシを放り込んで地獄茹でにして丸ザルに移す。網中では広く泳がせていて、すくい取る部分だけ網を絞って、すくい取り易くするのである。この様に茹で上げたイリコは銀色に輝き、腹側を内側にして、くの字状に曲がるのである。この丸ザルを互い違いに、直接重ならないように工夫して、山盛り満載して干場に午(ひる)前に帰港し、ムシロの上にまき散らして、天日乾燥させる。加工場の専任責任者は、父の1番番頭、崔尚現(チェ・サン・ヒョン)で、兄弟親族約10名、常雇用していた。干場は、約10名(女性を含む)で多忙である。午から、前日、乾燥済みのイリコの1貫目入りの袋詰め作業をする。約500俵である。活きた片口イワシ2,000貫漁獲して、イリコ500俵である。
漁場では、漁船員40名で操業する。当時、山陽面の地方では電話回線が満杯で、新設が出来なくて、毎日、父よりの連絡指示を受け取る為、小4年生の逸夫が遠路を歩いて通う事になった。遠路、炎天下でひどくくたびれた。以前から亀谷回漕店の空き自転車で斜め乗りの練習をして乗れる様になってたので、父にしんどいから大人用の自転車を買ってくれと言うたら、オンボロの中古を買ってくれた。斜め乗りをしたりサドル上に乗って、ペダルのアームをツマ先で上にケリ上げる方式を習得して、随分楽になったが、毎日はきつかった。父は、その日、干し上がったイリコの収納を見届けて、漁場へと引返して行った。
胃腸弱の父は、おかゆと、煮野菜を食べてた。父は2週間に1回の潮休みにしか帰宅しなかった。当時、すでに経済統制は施行されており、イリコは公定価格、公で1俵あたり1円70銭と決定されていた。ところが公では漁船員の賃金が払えないのである。そこで、イリコ海産会社では、ヤミ値で2倍の1俵当り3円40銭で買入れしていた。崔番頭が、色々と逸夫に教えてくれた。1日、300俵しか獲れない日があると、経費がやっとトントンで、まかなえる程度、即ち1日、約1千円の最低必要経費である。1日、500俵獲ると約600円の利益となる。漁期は11月初旬、終了する。こうして、夏の漁期はくたびれて終わる。日本内地でも、食料入手困難となっていたので、淡路と、神戸の河合せんさん宅へイリコを沢山送った。正美さんが河合家に下宿していた。
父は、急いで打瀬網漁船を3隻に増やし、鎮海湾の良質な赤貝の大漁漁獲を目指した。大阪市場を丹念に調査したら、貝類専門の大問屋が堺市に在って、そこへ直接送り込む販売約定をした。打瀬船は3日~4日操業して西風の季節風に逆らって、東西に長く狭い見之梁(ケンノリョウ)瀬戸を、順潮を選んで難航し乍ら統営へ帰港して来る。早速、荷揚げして家の前の道路上で選別し、ミカン用木箱に詰め(検量して)上蓋板の釘打ちを深夜までに仕上げ、軒下に積み上げる。
逸夫もよく深夜まで、蓋板の釘打ちを手伝った。翌日、午頃、釜山行きの定期貨客船(鋼、200屯型)に亀谷回漕店が積込む。釜山港で、直ちに下関行きの関釜連絡船積込み、翌朝、下関で大阪行きの山陽線貨車に積替え、大阪到着、販売する。(ワラナワで十字にしばり荷造りとする)午後になると、堺の貝問屋から、電報が着く。個数と売上金額である。
打瀬網船は、3本マストの帆船である。鎮海湾は、統営から東へ約30km、湾口は東西に広く、奥は逆V字で中都市、馬山市がある。東郷連合艦隊主力艦隊が投錨集結し、外洋に出て艦隊運動訓練、砲撃演習等しながら、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った基地として有名である。後に、朝鮮唯一の海軍要港部基地となった。統営魚市場が在って、有力な仲卸人(日本人)も沢山いたが、岡山村の打瀬網船主も、赤貝は同魚市場で販売し、仲卸業者は殆ど釜山、ソウルで販売し高値販売は出来なかった。そこで父は、岡山村船主の赤貝も買い付けを始めた。統営魚市場の市場価格より少し高く買ったので、船主達からはとても喜ばれた。
運よく、富島で、東根荘四郎氏所有の新古船東栄丸が売りに出されたので、父は早速購入した。大崎造船製で、エンジンは木下鉄工の60馬力、まだ新しく上部まわりはケヤキのピカピカだった。ここで父は、その智と才を存分に発揮した。朝、休養を取って出漁する。打瀬船を1隻曳航して鎮海湾へ着き、他の2隻の打瀬船の漁獲した赤貝を積込み、休養させる1隻を曳航して夕方、統営に帰港して荷揚げ、堺向け発送する。打瀬船は6人乗りで、24時間、桁網を底曳きして、大漁の良質赤貝を漁獲する。次に休養を終えた打瀬船を曳航し、操業中の打瀬船に補給する。野菜を積込んで航く。
新住吉丸の(元東栄丸)船長は崔氏である。崔氏は、どうしても大阪航路を学習したいと申し出たので、昭和10年ころより、3年間乗船して航海士として訓練を受けた。優秀であった。この運搬船に依る、集荷と曳航形態が高効率で漁獲量も、他の船主船と比較しても、飛躍的に向上した。すると、岡山村の打瀬船主組から、毎日、鎮海湾の漁場で、直接買取って下さいと申出があり、父は即応したので、俄然繁忙となり、統営中の赤貝の90%を買占めるに至った。自船で漁獲した赤貝からは、どうしても若干、割れ貝が出るので、これは吾が家の食卓に毎日、山盛り出され、たらふく食った。味噌炊きにもした。連夜の大漁出荷、荷造りも、全従業員が頑張った。近在の漁師が「ペー」(舟)4屯位の帆と2丁櫓で獲った赤貝を少しずつでも持って来るので、父は全部買ってやった。
春になると、欲地島の植村問屋から「夏の大アジを獲る、旋網をやりませんか?」と声をかけられ、父は喜んで網元となった。夜間、集魚灯で集魚して、双手網で旋くのである。集魚灯は、アセチレンガス灯と発電機式があり、出力に規制もあった。安価で出来るアセチレン灯方式で始める事とし、15kg入りのアセチレン(カーバイト塊)丸缶が、吾家の土間に50缶も積み上げられた。魚探など無い時代で、海面に泡が浮上してくるのを、よく検分し、次に釣針を4本程、鉛の重りに縛り付けた糸を海中に入れて、上下に引くと当りと密度と深度帯が読めるので、双手の網船で投網し旋くのである。住吉丸が、運搬船で専属で付いていたが、大型のアジが獲れるのだが、不漁傾向であった。船頭が、ゲン直しをしたいと言うので、応分の費用を渡し、招かれたので行ってみたら、牛の首を供え、祈祷師が鉦と太鼓でお祈りしてたと、父は苦笑しながら帰って来た。夜焚旋網(よたきまきあみ)とイリコ網で騒然とした夏だった。
真夏(8月)1ヶ月程、打瀬船の船頭幹部が5~6人、自宅2階の10帖間に集まって、赤貝漁の桁に取付ける袋網を、手すきで編むのである。直径3mm~4mmの太糸で編む。3隻が冬中に使用する全部の網と予備を含め沢山の数量である。丸1日中、仕事をして1ヶ月はかかった。逸夫もこの時、手すき網みは全部覚えた。こんな太糸の網は、地元の製網工場でも生産出来なかった。この白網は直ぐ、コールタール染めして、しっかり乾燥させとくと、1冬中、しっかり使用できた。
夏の終わりに、閑山島(ハンサンド)(統営の南3キロ)の旧知の人から、冬期に「鴨刺し網を操業してみませんか」と話しかけがあった。詳しく内容を聞いてみると閑山島南岸近くに数ヶ所の小島が有って、シベリアから渡ってくる数10万羽の鴨の越冬地である。この大群が、潮の東流、西流に乗って食餌しながら、小島との狭い水道を移動してくる。昼間に移動方向と潮流方向を確認しておき、夕方に、水道に刺し網を張って、両岸にロープを固定しておく。潮が転流して、鴨の先頭集団が、網の位置に達した頃、ロープ固定位置から電池灯で合図をする。すると潮の上手で待機していた、追い込み船が1斗缶の空缶を割り木で叩いて、大音響を出して追い込む。夜間の鴨は、本能的に空中には飛び立てず、専ら、水中に潜水して逃げようとして網にかかるのである。父は、初めあまり乗気でなかったが、この海域は熟知している父なので、漁場と漁民が小規模に操業している漁具も見せてもらった。漁具はとても貧弱であった。
父は、春と秋、定期的に淡路島と大阪中央市場を訪問、各生産地の漁況、流通、販売ルートの調査と、情報収集に努めていた。大阪で野鳥専門卸問屋(キジ、カモ等)をすぐ探し出し、専門知識を聞き取り学習した。販売約定を取り決めて、早速、帰鮮して、漁具の設計、製作に着手した。浮子(アバ)は大型桐を蜜に連なる様にし、浮子に黒ペンキを塗った。鴨に気付かれない為である。次に、操業方式の改善を崔氏と協議して、準備を完了した。月夜は避ける。大潮時は潮流が速すぎるので避ける。1月の適期に網を仕掛けた。追い込みも順調で、網に多量の鴨が刺して大きな抵抗となり主ロープに限界がきた。大ガラス玉(ネット包み)を数個、主ロープに取付けて、小島の固定位置から解き放った。ロープの端末は当然、閑山島側岸部に流れ着く。刺網はとても大きな重量がかかっており、到底人力では揚がらないので、手巻きウインチで浮子ロープに大鉄鈎をかけて巻き上げ鴨を魚槽に積込んだ。上甲板が浸水する(乾舷ゼロ)位、満載して帰港してきた。
崔船長が「沢山獲れて、積みきれない。もう2航海は必要です」と叫んだ。鴨は首長と呼ぶ大型種で、ミカン箱に6羽~8羽位しか入らない。大変な作業となった。蓋板の釘打ちを懸命に手伝った。わら縄荷造りを、深夜迄、作業は続いた。この日は、崔船長は鎮海湾行きを休航した。翌朝、崔船長は鎮海湾向け出港した。鴨は、例の赤貝の出荷ルートで大阪で販売し、好収益を上げた。鴨網漁は、闇夜と小潮時とを調整しながら2月末迄続けた。第1回目の操業で、何千羽獲ったか?忘れてしまって、記憶は定かでない。大鴨は軒下の物干竿に吊り下げておくと(約10羽)、夜は零下になるので、2日もおくと熟成して美味となる。崔氏の部下が海岸で捌いてくれた。1週間程、吾家ではネギを沢山入れて鴨鍋が続き、たらふく、沢山食べた。
当時、統営では「満州送り」と呼称する、高級魚(刺身用)を4斗樽に氷詰めして貨車で、満州の長春へ送り販売する、仲卸人が殆ど発送していた。軍部用の料亭向けである。父は、満州送りは見向きもしなかったが、統営市場から協力を依頼され止むなく、自家打瀬網船で漁獲した高級魚を山陽面のイリコ加工場に陸揚げして、出荷する事となった。逸夫も応援(実習)にいった。4斗樽の中心に角氷柱を立て、一般魚を並べ砕氷を敷き、又、その上に1段魚を並べ、又砕氷と段重ねして、丸ブタを外板から釘打ちし、ワラわら縄でY字形に荷造りした。樽を5個、大八車に積み海底トンネルを入るところと、出口の勾配がかなりあるので、崔番頭が手造りでブレーキを作った。即ち、丸太材を車輪の前直下に細ロープで吊り下げ、その丸太材に4本のロープを取り付け、その4本ロープを後方から各1本を1名が後ろに引張り、摩擦抵抗を発生させてブレーキとする。梶棒は、崔氏の次弟サオガ氏(立派な体格)が担当して、トンネルの入口へゆっくりと入って行った。するとスピードがだんだんと速くなって、後から4名が4本のロープで引張ってるのが支えきれなくなって、4名がロープを放してしまった。大八車はアットと思う間すっ飛んで行ってしまった。海底の水平部の手前は、カーブになっており、見えなくなってしまった。4名はアイゴー、アイゴー(悲しいの意)と叫びながら、不安な結果を予想しながら、必死になって走った。カーブを曲がって直線部に入って前方を見たら、上り勾配にさしかかる手前で、大八車が無事停車しており、サオガ氏も無事で、全員でチョッタ-、チョッター(良かったの意)と叫んだ。直ちに、竹田造船に依頼して、堅木で車輪のカーブに合致した、ブレーキ器材を取り付けた。当分、満州送りは続けていた。
昭和16年12月8日、日米が開戦した。同12月を以って、海軍は鎮海湾の漁船操業を禁止した。