富島水産株式会社設立

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 昭和10年頃になって、各大手船主間に於いて買付浜の契約を巡り、各地で紛争が多発するようになり、大きな問題となってきた。そこで、任意団体、富島發動機船三業組合(資料146頁)が結成され、過当競争すると利益が確保できない。すぐに、買付浜を持つ船主にも浜の高値がモロに影響する筈である。特に、五島列島に進出した、三嘉惣右衛門氏と二実右衛門氏との競争が激しかった様である。そこで三業組合が、円満な営業を双方に求めたのである。この時、浜口好氏が、企業合同し富島水産株式会社の設立を提案された。賛否両論、活発でまとめるには長期間を要した。家族・親族で、小規模業者(1隻船主、2隻船主)の方達は、全反対で「活魚船業が会社経営では、全く成立しない」と主張し、殆ど、加入参加しなかった。
 昭和12年春になって、大手、準大手が賛同に至った。資本金50万円、活漁船の現物出資45万円、船1隻毎の評価委員会が開催され、大いにもめた。2ヶ月を要し、取りまとめに大役を果たしたのは、日野春義と日野顕徳氏であった。又、各業者間の、収益力の多少が問題となり、この調整にも手間取った。1株50円、発行件数9,000株、株主69名。出資船85隻、給油船1隻。
 朝鮮南東岸で操業中の、鯖旋網船団二浜口実右衛門氏所有の2船団と角三木角一氏所有の1船団が参加、加入した。室津の金宝丸(浜田氏)も当初、参加したが、後に間もなく脱退した。(戦前の商法で、現物出資は容易だったが、戦後の商法では、殆ど不可能に近い)
 昭和12年秋に富島水産株式会社設立。製氷工場と、修理鉄工部は、その以前に設置、操業していた。同時に嘉右衛門氏より、株券才吉氏(160株8千円)、春義氏(160株8千円)が譲渡された。
 当時の給料は浜口好(社長100円)、嘉右衛門氏(営業部長80円)、春義氏(70円)、顕徳氏(70円)であった。
 昭和13年、政府は国家総動員令を発令した。公の経済統制が施行された。公定価格。
 昭和14年春頃、富島水産が神戸魚市場へ鯛をヤミ値で販売したとして、日野嘉右衛門氏三木角一氏が兵庫警察署に拘留された。浜口好氏が釈放に尽力された。統制初期であったので、しばらくして釈放され、科料処分となったと聞いている。この事案が発生したので、全営業が停止された。給料の支払いも全停止となった。この時期から、富島水産に加入しなかった小規模船主たちが、船体の保守が困難となってきたので、一斉に船の売却を始めた。昭和16年中には、売却は完了した様である。小型船は、朝鮮にも売却された。
 富島水産会社は、船の売却も出来ずにいたところ、日米開戦直後に海軍によって徴用され、主に中国・上海方面に回航された。敗戦時、富島港に残留してたのは、中・小型古船ばかり6隻のみであった。
 先述の通り、富島水産の株券は、昭和14年に突然、紙切れ同然となった。
 昭和22年頃、共和丸・残存船(7隻)を各船主グループに按分にして、分割し現物配当する事になった。嘉右衛門家には3号共和丸。顕徳氏には8号共和丸が割り当てられた。3号共和丸は、元顕徳氏の持船で、船体延長工事もし、エンジンも2気筒の40馬力に換装していた。8号共和丸は、とても古く小さく単気筒の35馬力であった。顕徳氏より、嘉右衛門氏に申し入れがあった。3号共和丸は、元来、自分の持船で、延長工事やエンジン換装に手間をかけた愛着の有る船なので、何とか8号共和丸と交換して欲しい。評価して、差額は支払うとの事で決着し交換した。8号共和丸は、日野才吉氏が船長となり、昭和23年正月、五島・奈良尾港へと出港した。
 昭和25年頃より、富島水産会社の端株券を所有している多くの人たちから「紙切れ同然と思われるが、如何にしても忍びがたいので、資産評価して買い取って欲しい。」旨、申出が何回もあり、協議して買い取った。即ち、浜口実右衛門氏、浜口好氏、日野嘉右衛門氏、日野春義氏、日野顕徳氏同数で買い取った。
 鉄工部は収益良好で、加工機器の更新に資金が多く必要となり、新株で増資することになり、この時から初めて、鉄工部責任者、米山慶二氏と藤沢義夫氏に出資してもらって、株主になってもらった。新株は、他の株主も同額で、出資増資した。ちなみに、昭和45年の時点で、日野春義の持株は、親株3千株であった。持株160株、8千円の現金化を手にする事無く、日野春義氏は、昭和45年2月亡くなった。
 富島水産会社は、すでに、富島産業株式会社と社名変更していた。昭和47年、顕徳氏より、全株式を買収したい旨、申出があった。嘉右衛門氏が、洲本の顧問税理士に相談したいと言われたので逸夫が運転して、相談に行った。税理士の回答は、「①同族会社と認定される。②その場合、1年の買取限度額が、顕徳氏を除く、他の株主8名で割った、約13%以内に制限される。」との事であった。親株の複雑な計算は、顕徳氏の顧問税理士が実施した。買収価格は1株当り571円と決定された。昭和48年に第1回買収、高齢の浜口実右衛門氏分である。嘉右衛門氏は至急に資金が必要と主張し、第2回分として昭和49年、同50年と2回に分けて買収してもらった。正保氏名義分も有ったが、告知しなかった。やがて、顕徳氏より「逸夫君よ、早く買収して欲しいとの申出が多いので、済まないが、最終年になるので、それ迄待っていて!」と言われた。
 昭和53年、自宅・新築して、とても困難な時期であったが、仕方無かった。顕徳氏から、逸夫が受取ったのは、昭和56年2月であった。