第五号、新建造時、機関選定のトラブル

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 嘉右衛門氏は、田中鉄工(2流メーカー)60馬力を選定、発注した。価格が、割安であった。ところが、航海を開始したところ、軸受けの焼損が続発して、止まらなかったのである。1度焼損すると、その復旧に5日~7日間もかかるのである、朝鮮から蛸満載にして上り航に、焼損すると、酸欠で大部分の蛸が死んでしまった。どうしようもなく満足に航海も出来なかった。折角の新造船が活躍出来なかった。
 実右衛門氏は、昭和元年頃より、きしろ鉄工(明石市)の50馬力、60馬力を何隻も搭載した。この昭和6年にも、富島で最初での3気筒120馬力(きしろ)を発注していた。同年、先に発注した、顕徳氏も80馬力(きしろ)であった。顕徳氏の船も、嘉右衛門氏の船も全長は、同じ61尺であった。
 急拠、主機関を換装する事になった。有馬藤吉氏らが、阪神間の各メーカーを廻って、5号の機関室の長さに納まる機関を探した。機関室の長さが、顕徳氏の5号より短かかったので、きしろの80馬力は入らなかった。やっと、神戸市長田区の日本発動機(ニッパツ)の70馬力を探し出して、換装する事になった。木製機関台、樫木、厚さ50cm、幅80cm長の機関室の全長分が必要である。造船所にクレーンの無かった時代である。主機換装工事は3ヶ月~4ヶ月の期間がかかり、気の重い作業工事である。造船所及び鉄工所の応援を求めて行う、当然かなりの出費が必要となる。筆者も焼き玉機関2台、ジーゼル機関3台の換装経験がある。この換装工事に必要とした多額の出費は、父春義にとってにがにがしい思いであった。