鯛縛網漁法
その船団に買受船の仲積船一隻(4名乗)が常時附属する。縛り網船団の操業海域の中心部に適当な活簀場を設置する。操業は満潮時の潮止り時刻にカズラ網(鉛沈子付)、カズラとは桧材で幅20cm、長さ約1m薄板をカズラ網に取り付けてある。魚眼の特性を利用したものである。カズラ板の取付け間隔は約2m毎、漁労長が山立てをしてカズラ網の投下位置を決め、ザイ(信号)を振る。引き潮時の潮下手より入れる。カズラ網に適当な間隔で長さ約70mの細目のロープがカズラ受け小樽に巻き付け、順次投入されて行く。カズラ舟は投入が終わると船首側に投錨して各7名の若者達が人力で素早く、カズラ網を引締める。先投入したカズラ網小樽を先述の約7隻の小舟が、そのロープを保持して、海底の障害物などにからまいないように調節する。その時、カズラ網がほぼ締まり終える頃、下手にかまえた網舟に対し投げ網の(ザイ)信号がふられる。網舟は、多数の櫓を押して投網を完了する。投網完了直後、網船2隻を大きく交叉させる。この型を縛り網と云う。網の中央部約半分が直網(糸網で袋状)より網船側は大曳網と称し、稲わらの堅い芯だけで堅く縒り合わせた荒目1結節約1mを使用する。
網の引揚が進行し、直網の部分が揚がってくると交叉を解除する(網船)。次いで直網の引揚げにかかる。網の引揚げ終わるとほとんどの鯛は腹を上に向けて浮いている。エラ呼吸はしている。海底との水圧差により、腹腔内の水圧調整袋内に空気が発生している。仲積船を網船に横付けして、検量手網に入れて検量し、1回に10匹前後を仲積船の活間蓋の上に移す。ムシロ敷き。指名専任の管針師が鯛の腹を上にして、肛門から竹の小枝、直径約5mm、先端を斜め45度に切断し、その先部を炎で焼いてある。その竹管針をさし込んで、空気袋をつきやぶり空気をぬく。プシュッと大きな音がする。順次活間に放す。この作業は、手早くしなければならないので修羅場のような状況となる。仲積船は約1,000kg、約800匹積める。その時、漁労長より仮泊港と翌未明の出港時間の指示を受ける。仲積船は、活簀場基地へ急航帰港し、竹活簀に鯛を移す。夜11時時頃になることもあるので、縛り網船団の仮泊港へ引き返す。出港は、午前4時頃である。シバリ網の鯛は一回操業で漁獲量が1,000kg以内なら、順調に活簀での飼い馴らし3日間必要である。上手に扱えば大阪着6割、活けシメそぐり氷箱詰約3割、目切れ1割。
明治期、兵庫県播州方面にも、多数の鯛縛り網船団が操業していた。家島の小林松エ門氏が昭和27年、ソナー(魚群探知機)を装備して操業していた。岡山県、香川県、広島県、愛媛県、山口県地方方面に多数の鯛縛り網船団が操業していた。大正中期より活魚船の発動機関付船が増加するようになった。当時、燧灘の魚島に大問屋が大量の竹活簀を所有していた。今治市と魚島との中間海域「バンダイの洲」という好漁場があり、大量に縛り網で鯛が獲れた。当時は、検量すると、鯛同志にキズがついて傷むので検量はせず「ツラ」匹数単位で商取引きが行われた。一日の数え匹数10万匹も獲れたと古老先輩より聞いた。浜口実右衛門氏は、香川県直島の鯛縛り網5船団と契約し、直島漁港を活簀場基地としていた。操業海域は、現在の瀬戸大橋東側直近の大槌島、小槌島付近であった。
マルハ、大洋漁業社史中に、播州方面の鯛縛り網には、漁期の後半になると、鯛に混ざって、サワラ、サバが混獲されたと記載されている。サワラは、「上り鯛」より約1ヶ月遅れて、これも産卵の為、「入り込み」してくる。各地で、サワラ流し網で漁獲される。「鰆」が所以である。
戦後も、播磨灘、備讃瀬戸、燧灘、伊予灘、周防灘、各方面で多数の鯛縛り網船団の操業が目撃されていた。ところが、昭和30年代になると、昭和35年にかけて、廃業船団が続出する様になった。各地で、小型1隻で操業できる、ローラー吾智網の普及増加が一因だとも言われている。広島湾奥、厳島の南隣の阿多田島(小さい島)に10船団以上の鯛縛り網があり、殆どが山口県徳山市笠戸島南沖で操業し大量漁獲していた。筆者も昭和20年代に、親類から応援依頼を受け、大型船で運搬に従事した経験がある。その活簀場では、網活簀を使用しており、飼い馴らしが、とても難しいと感じた。
上りダイが近畿地方で最も早く取れるのは小豆島の北東岸、当浜(アテハマ)の小型定置網(ツボアミ)、良型ぞろいででよく太っており、これは前の鯛並みの扱いであり、この鯛が大阪では、上人気で高値販売された。快速船で運んだが、鯛をしめて大阪市場に入港してくるのは午前3時ころとなり荷揚げと選別と箱立ての時間に追われた。九大日水産、金金宝丸、二社が競合して、きびしい商戦が展開された。大阪魚市場(株)「大水」両社とも、この上級の鯛が是非必要だった。大正13年、雑喉場魚市場「勝又商店」入社の小池重見氏は鯛のシメ方として、その活船にシーズン中乗り込んでいた由。香川県東部、引田町、津田町付近にも小型定置網はあったけれども、少量しかとれなかったようである。
筆者は、昭和24年18歳で、仲積船の機関長をしていた。愛媛県長浜町青島、赤穂善三郎氏所有の鯛縛り網と契約した。活簀場基地は、中島町二神島に設置した。主漁場①松山市釣島南西沖「オオバ」、②二神島南「ヨコ洲(ズ)」、③二神島南西方「ガンギ洲」、④平島(大浦)「東方沖」、⑤「上蒲刈(カマガリ)島南」
①「オオバ」漁場は大潮小潮操業、普通量約500kg位
②「ヨコ洲」鯛大型魚が多い、普通約1,000kg、早朝投網
③「ガンギ洲」は10日前後の潮時、早朝又は夕暮前投網。大量にとれる、6,000kg(約5,000匹)
④中島(大浦)「東方沖」大潮小潮時、普通500kg、漁期中期以後操業
⑤「上蒲刈島南」漁期終期 小汐(コシオ) 普通量300kg位 漁期の終期鯛に空気抜きの管針をさすと、卵がすでに飛び出していた。5月下旬、雄鯛は白い液体を出した。
2月下旬網元、赤穂氏よりの依頼によって、すでに註文済みの漁具類を広島県福山市鞆浦漁港の船具商より受け取り青島漁港に届けるのである。大曳さわら網で漁期迄に漁船員等が節目1mの大曳き網を人手であみ上げるのである。4月上旬の出漁となる、初漁は「ヨコ洲」又は「オオバ漁場」から始まる。大分県佐伯港を午前4時出港、仲積船は船団の約半数、即ち網船1隻、カズラ船1隻、カズラ小舟4隻を曳航し、更に船首にロープを固定し左舷側に漁労長舟を曳航する。もう1隻の曳船は他の半数の船団を曳航する。漁場近くに達すると、漁労長が山立てをして、針路変更、指示をうけながら漁場に到着、曳航を終わる。
網が引き上げられた後、仲積船を網船に接舷し、鯛の検量をし、双方が各ノートに記載する。積み込みが終わると、各検量数字の読み合わせをする。管針で腹腔内の空気を抜かれた鯛は活間に放たれた一瞬にすばやく、船底に泳ぎ込む。二神島には、老練の駐在員を常駐させ、活鯛の管理をさせていた。一汐15日経った頃、駐在員から申し出があった。「腹に空気が多くのこっている鯛が多い。空気を全部取り切ってしまった鯛もあるとのこと」空気が多く残った鯛は、活簀の上層部を頭を30度位下げて全速力で泳ぎまわり疲労死する。空気をほとんど取切ってしまった鯛は、腹部を活簀底につけたまま二日経っても泳げない。泳げない鯛は、大阪上り航に積みこんでも泳げないので、ソグリ手網で背を押し腹を見ると、赤く内出血しており、早くシメルことになる。
早速、管針師に相談した。管針師曰く「活け間、竹活簀内で、上層部・中間部・下層部と鯛が広く泳げる様に、適当に手加減して空気抜きをしている」との説明である。当方も「空気を多く残すのはいけない。空気を殆んど残さないのもいけない旨」注意、協力を依頼した。この買手運搬船よりの申入れは、素早く全船団員に伝達された。
管針師は、鉢巻をして管針を5~6本(スペア)手裏剣の様に鉢巻に立ててある。多数の鯛の空気抜きをしてると、内臓の汁などで詰ってくる。すると根元の方から口で吹き出すのだが、通らないとそれは捨て新品を使用する。合羽ズボンをはき両ひざを突いて、ドンドン寸秒を争って空気抜きをしてるので、網船の漁船員が4名程加勢して、管針師の手元に、腹を上にして送り込み、手早く進行させるのである。中には、肛門から腸がピンポン玉のようにとび出している鯛も、ままある。腸は、指で押さえて押し込むと中に戻り、空気抜きも出来るが、再度、脱腸するので、その場で規格外としてシメル。少ない量なら船団が分配して食べる。量が多いと検量して仲積船が引取り。氷詰めする。積込みが終わって離舷する時、網船の船頭が、「住吉さんお菜に食べて」と鯛3匹程デッキに投げ入れてくれる。
船団の漁夫達は、最低保証固定給+(プラス)歩合給制度なので、鯛は大量に獲らないといけないし、しかも丁寧に、空気抜きして仲積船に渡さないと、漁夫個人の収入に直接影響するので、全員が努力するのである。筆者も鯛の空気抜きを、練習しようと機会を伺っていたが、現場は寸秒の暇もないので、練習する事はできなかった。鯛の空気抜きをする時は、その空気袋は肛門から約2cm位の近いところにあるので、管針はさしやすいのである。
午後4時頃、仲積船は(大潮、小潮時)二神基地に鯛を積んで帰港することがある。4名がそれぞれ1本のすくいだまを持ち、二人がペアで片活間からすくい取って竹活簀に移す。粗魚なので、動きはにぶいので、少し残った鯛も二丁のすくいだまで、合わせすくいをすると、最後の一匹まですくい取れる。全部移し終えると、夕方までまだ時間があるので、駐在員と伝馬船に同乗して、全部の竹活簀を箱眼鏡をつかって、弱い鯛をソグリして〆る。翌朝下り船が寄港入港し、駐在員と船長ら幹部が伝馬船で竹活簀内の鯛をきびしくソグリしてしめる。同船は常時、船首側の氷倉に3トンの氷を積んでいるので、ソグリ鯛はすぐ、箱立てし氷づめする。鯛を積む活間は、船尾側の大間、二の間、三の間位までである。立栓の数も約半分位しか開口しない。船首側、四の間、五の間はハモや蛸等を積みこむ。立栓は全部開口する。鯛を積み込むのは、他の浜でハモや蛸を積みこんだ後、上りに再度、二神島に入港し、夜半、鯛を積みこみ、大阪向け出港する。(北淡町)鯛を船尾側の活間に積むのは原則である。時化た時に、活間内の海水の動揺が最も少ない部分であるからである。
最も難渋するのは「ガンギ洲」で鯛が大量に6,000kgもとれた時である。ある時、日没後に網の引揚げが中頃にかかったころ、100m程向こうに、鯛の真白な腹で網が海面上に浮かび上ったことである。この時は暮れかかる海上で、全員がそれぞれに船べりをたたいて大歓声が上った。直ちに、空気抜き、積込み開始、一航目、二神島活簀に移した。網船では、後約5,000匹程の鯛の空気抜きを急がなければならないので、専任管針師が管針の上手な漁夫を5,6人指名して、網船の舷は低いので管針師全員ですくい上げ空気抜きをして、網の中に泳ぎこませる。仲積船の2航目を待っている。一航往復に約3時間かかる。夜明けまでかかった。
この様に一網で大量にとれた鯛は、竹活簀に収容する迄に長時間かかりすぎるので、スレダイも多く発生する。「飼い馴らし」も順調にはいかない。即ち弱い鯛が多いということである。「ガンギ洲」で大量にとれた鯛は、大阪市場へは約5割しか活着しないし、その上にスレも多く出て、並みの価格で販売できず、下値になる。
「ガンギ洲」で夕刻に、大量に取れて、空気抜きをして、一晩中網の中で過ごした鯛は(ウネリも有る)、二神島の竹活簀に収容しても買い馴れないのである。長時間、網の中にいたストレスが原因と考えられている。この様に1度に、大量漁獲した鯛は、3日間置いて、大型船で早急に運搬販売しなければならない。舷側外板(上棚)の立栓9個は全閉する(片舷側)船底、立栓9個だけ全開する(片舷側)。全開栓すると換水流が強くなり、弱っている鯛がヨタ・ヨタする。疲労させる事になる、水温も20度未満で酸欠の心配も無い。上り船は、翌朝、朝食前に、当直航海士だけ残し、船長以下全員で厳重なソグリ作業をし、完了してから、朝食し当直交替する。午後4時、富島港近くなった頃、最終ソグリをする。「ガンギ洲」漁場で大量に獲れた鯛は難渋物である。大阪活着は良くても5割、不良の時は4割りの時もあった。
網元との値決め交渉は、漁期が終わってから一潮毎。漁獲量毎に協議の上値決めをする。近隣産地の一本釣りや延縄。ローラ吾智鯛の浜値段と比較対称して決定する。鯛しばり網の全漁獲量を、専有買付するについては、買取側には仲積船一隻の運航諸経費がかなり多額の負担となるので、うおじま季節は長多忙ではあるが、ほとんど利益を得たような感覚を持ったことは無かった。
赤穂善三郎氏は、永く青島で鯛しばり網漁を経営されて来た方である。先祖は兵庫県赤穂市から移住されて来た由。戦前から愛媛県水産業の副会長を永くされた。昭和28年頃、漁期中に、6万kg(1万6,000貫)の最大漁獲量をあげて、盛大に入港祭を開催した。
伊予灘では、戦後、赤穂網の外に、北条市(松山市の北東)に鯛縛り網2船団が操業していた(漁協経営)。買受運搬船は、戦前から広島県大崎上島の吉徳丸である。赤穂網が、中島大浦東方沖で操業するときは、北条市の2船団が、北条市前面海域で操業してるのが間近によく視認された。北条網には、漁期後半にサワラが多く混獲されていた。
昭和30年、筆者は瀬戸内買付責任者をしていた。活簀設置浜27ヶ所である。5月、前夜、二神島蛸値立て会があり、午前1時頃終了、就寝した。午前8時頃、仲積船が汽笛を何回も鳴らし、西方から帰港してくるのが見えた。活簀場で鯛を急いで、竹活簀に移した。船長に聞くと、漁場は「ガンギ洲」でまだ大型の鯛が残っている。早速駐在員に「もうすぐ大型の3号が下り航入港して来るので、直ちに「ガンギ洲」漁場に急行してくるよう命じた。筆者も仲積船に同乗して「ガンギ洲」漁場に急行した。ところが、天候が激変、前線の通過で大雨。東よりの強風となった。大雨で視界不良何も見えなくなった。そのままの進路で、航行を続けるしかなかった。大時化となった。
ブリッジで懸命に見張りをしていたら、すぐ眼前に砂浜とその上の少しばかりの松が見えた。急旋回しスローにして、その砂浜を何回も見たけれども、たぶん「大水無瀬島(おおみなせじま)」だろうと判断した。鯛網船団は発見できず、とても不安感を覚えた。しかたなく、反転して東へ向かった。視界不良。30分もすると雨が止んで来た。段々と視界がひらけて来た。二神島南方の離島、由利島が見えてきた。由利島に接近すると、その時、由利島の東側を3号が南下していくのが見えた。3号は、1号仲積船に気づかなかった。由利島南岸に東風を避ける湾があるので、そこに船団が非難してる可能性もあったので、南海岸に接近してみたが、そこには船団はいなかった。
西の方を見ると大水無瀬島がはっきりと視認で来た。船団は、全く視認できなかった。大変な事態になったと思った。全速で急航した。やがて大水無瀬島南端に接近した。南隣の「小水無瀬島」の南沖に船団の船影がパラパラと見えた。急いで接近した。船団の幹部たちは「高波が船内に浸水して来て危険であった。鯛を全部シメて網を揚げてしまわないと、網船がもたなかった。島に打ち上げられそうになり、引き船に引かれて脱出した。全船団が命がけの目にあった。」急拠、漁労長は船頭会議を行った。全員びしょ濡れであるし、青島はすぐ近いので、一旦その場は青島に帰港することになった。2隻で全船団を曳航して、青島に近づいた頃、3号が青島近くに南下して来るのが視認された。青島港内で合流した。
船団とシメた鯛の処理方法を話し合った。鯛の魚体は上りダイのように白っぽくなっていた。とりあえずは、箱立て氷詰めとして、受け取り販売して見て、その後に値交渉を行うことで決着した。約5,000匹である。筆者は3号に同乗し、山口県柳井市平郡の蛸積取りに急航し、その夜の内に二神に寄港し、上り航出港させた。大天災にあった。しかし、この時、1号仲積船に、永年、顔なじみの船主(23歳)が同乗して来た。3号が共同行動に参加した。船団から絶大な信用を得た。
鯛、スズキ、平目、これらの魚は、時化の船体の動揺ピッチング(立てゆれ)、ローリング(横ゆれ)による活間内の海水の動揺に非常に弱いのである。上り航高松市沖で、播磨灘の時化が予想されたら、立栓を1/3位に減じなければ船体外から動揺によって、栓口から吹き上げる海水量は強大である。更に活間の水面下約30cmの馬木(うまき)に切り込んである溝に仲積板を一面に敷きこんで、活間内の海水の動揺を極力おさえなければならない。また、南風が強い時は、香川県の東岸を鳴門海峡方面に南下し、鳴門海峡海域を最短距離で横切り淡路島海岸側に接近して、高波をさけるのである。淡路島側に接近して、波が治まる海域に達してから先述の仲積板の取りはずしを行う。以上のような、万全の対策を講じなければ、鯛は、全滅状態となる。波浪にはとても弱いのである。