シメた鯛はデッキ下の「ハネ張り」内に投げ入れる。半数以上、シメ作業が進むと更にポンプ排水し、残っている鯛を全部シメて完了する。次に「ハネ張り」横の「水バネ板」をはずして「ハネ張り」内のシメた鯛を順次、船底におろす。その海水溜りに砕氷と角氷を入れて、冷却する。鯛の赤の発色が一層鮮やかとなる。4月、5月の夜半は水も冷く、風も冷い。ウェットスーツのなかった時代である。適当なうねりがあるので船体が動揺しているので、酸欠の心配はない。二活間ほどの鯛のシメ作業が終ると次にハモの活間の閉栓をして、大阪港内に入港していく。ハモの活間はポンプ排水(約半分)、ハモシメ作業を開始する。
明石型生船生の間断面図
天保山付近に並行すると汽水域となる。そこで蛸の活間の全閉栓をする。そこから全速でハモをシメながら、大阪魚市場岸壁に到着する。時間は午前1時~午前2時頃である。天保山付近で、活鯛の冷却温度を手を入れて検分し、温度が上昇しておれば、更に氷を入れる。接岸後は、まず蛸を荷揚げする。次に、ハモを荷揚げする、最後は活けダイを通い箱(鯛30匹くらい入る)に入れて荷揚げする。売り場では、魚種ごとに選別、検量。箱入れの作業が行われる。入港船は、約20隻位であった。売場はそのさばきに、大混雑となる。市場の休日は昭和20年代、神戸6の日。京都7の日。大阪8の日であった。
かねか商店は、8の日でも中型船で上り航船が来るので、神戸、京都で販売した。筆者は、昭和25年、26年販売責任者として2年間毎日、活魚を販売し、帰路は省線電車と明石から岩屋港まで連絡船に乗り、定期バスと乗り継いで富島へ帰った。昼食をとり、その日の売り上げ記帳をして、午後2時就寝。午後5時上り航船が入港して来る。夕食を自宅で取ることは無く、上り航船に乗船して夕食をとった。当時、筆者は18、19歳であった。船主であっても、船員は全員自分より年長者ばかりである。毎晩、活間にもぐってシメ作業を最終まで遂行した。休日は、時化でもなかったら1ヶ月に1日位であった。
うおじま季節が終了する6月中旬以降、下りダイとなる。(麦わらダイ)と呼ぶ。この下りダイを専業に釣る漁民がいる、松山市高浜町上の谷漁港の漁民である。津和地島の北端小島の東岸近くで、北の方に錨を3箇程投入し、釣り小舟約10隻ほど連って縦一列に繋留する。満潮から潮が引き潮となる(南流)がはじまったら、船べりに荒目の砂を沢山積んである。同活間には底に砂を敷いて、小エビエサを活かしてある。まず砂をまき、直ちに小エビを10匹ほど投げ入れる。すると小エビは沈下する砂に従って海底へ降りて行く。そこへつり針に小エビをつけたつり糸を、その位置に投げ入れる。産卵を終えて、鯛は採餌旺盛であるので沢山釣れる。これは、南流が初まってから約2時間、急流になる直前までしか釣れない。身はやせてはいるけれども沢山釣れる。これを「撒(ま)き釣り」という。
二神島の商主(しようぬし)矢野氏(戦前からの浜問屋)の小型運搬船で、筆者が船長、矢野氏が機関長の2名乗りで行って、北小島の潮のゆるい場所で投錨して待っている。漁が終わると、上の谷漁舟が集まって接舷し、値交渉して、矢野氏が検量する。筆者は勘定方を受け持ち、伝票に検量数、単価、金額を記入し小銭袋からパット現金を渡す。双方共に、永年の顔なじみばかりである。
下り鯛の釣期も短い。又、近くの別の漁場に移り、「ヤズ」(天然ハマチ1.5kg位)の「撒き釣り」を始める。餌は「活きイカナゴ」を使用する。この「ハマチ」は大阪市場で人気が有り、高値販売できたので毎日買集め、粗漁で積込みできるから、上り航、夜半に積み出港させた。沖買いの貴重な体験もした。
鯛の1本釣り(小型魚多い)と鯛延べなわ漁が始まる。津和地島や広島県豊島、香川県坂出市瀬居島から出漁して来る。餌は「ユウ虫」親指位の大きさで、淡路島では「コウジ」と呼ぶ。この「ユウ虫」餌の延べなわ鯛が最も良形で、空気抜きも上手で、魚体も強い。大阪活着8割にもなる。
7月に入ると、大阪の夏祭りが市内各地で始まる。「洗い料理」用の魚種、大、中型鯛、スズキ、平目、カレイの需要が増える。先述の「ユウ虫」の餌による鯛延べ縄漁も、7月下旬釣れなくなって、漁期は終了する。次に山口県熊毛郡室津漁協と契約し、鯛延べ縄漁で良型の鯛が、9月末まで漁獲された。7月、8月の大中型鯛は、大阪市場では需要が多いが漁獲が少ないので、供給が追いつかない程である。