冬期、活け鯛

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 冬期の活ダイは、戦前から貴重だった。数量が少ないので大阪市場では高値であった。戦前、対馬厳原港、北淡町室津金宝丸(浜田三郎氏)、対馬豊玉村水崎港、北淡町富島東栄丸(東根為吉氏)が営業し好成績をあげていた。東根氏は、経済統制により廃業した。全宝丸は昭和24年より、冬ダイの営業を再開した。大阪市場ではとても品薄で高値が続いた。水崎港を引きついだ地元の照丸(奥野氏)も時折、活ダイを大阪阪神市場に販売するようになった。漁期は、11月から翌年2月頃までである。エサは夕方延べ縄船が港外に出た辺りで、するめいか(マツイカ)を釣って活かしておき、午前3時頃出港、良い漁場に先の活するめいかを輪切りにして、エサとして投入する。対馬海峡の水深は、平均100m前後である。鯛はそういう深い海域にはいない。水深50m~60m位の岩礁帯又は、砂州帯(すなずたい)に生息している。対馬の漁民の人達の多くは、明治時代に岡山県、広島県、山口県、島根県、福岡県方面から対馬に出漁し、そのまま現地に居着きした人達がほとんどである。対馬美津島町赤島に地元資本で「若丸」(岡山若平氏)が同町高浜漁港及び根緒漁港両港の多量の鯛を買付けして、京阪神市場にも販売するようになった。かねか商店筆者は、昭和27年より美津島町芦ケ浦(よしがうら)に活簀場を設置した。同じく厳原町曲(まがり)港、上対馬(かみつしま)町比田勝港に活簀場を設置した。新規参入はとても困難なものである。当初は広島県豊島、島根県浜田港方面よりの出漁船の活ダイを主に集荷した。昭和30年、壱岐郷の浦町初瀬浦に、小型の鯛延べ縄漁船が多数いたので漁協と契約した。当初は小型船が多く、全般的腹の空気抜きが下手な状態であった。そこで船主会を何回も開催し、空気抜きを上手に丁寧に行うことを熱心に指導した。当時、下関漁港の釣り具店で、立派な空気抜管針を見つけた。主管部は銅製で先端部約3cmは銀メッキしていた。これを沢山購入して初瀬浦の各漁船に供与した。そこで空気が多く残っている鯛があり、親しくしていた若い漁民一人を伝馬船に乗せて、活簀で空気抜きを手ほどきで教えてもらった。又鯛一匹腹を解剖して空気袋の位置を確認した。獲れて丸一日もたつと空気袋はずっと奥の胃の位置くらいに存在する。袋も硬くなっており、強く突かないと穴があけられない。やっと鯛縛り網で習得できなかった管針で空気抜きする技法を習得した。
 壱岐の北端と対馬の南端との中間域に七里ヶ曽根(ひちりがそねね)、水深50mの広い岩礁帯の好漁場がある。良い凪でなければ七里ヶ曽根での操業は困難である。対馬漁船、壱岐の漁船もこの漁場に集中して良型の鯛を沢山漁獲する。2月中頃になると対馬ではエサ用のするめいか(マツイカ)が獲れなくなる。壱岐初瀬浦では、夕方に陸岸近くで「シドイカ」小型のエサいかがつれる。そのシドイカえさを買い求めに対馬の鯛縄船が南下してくる。それを初瀬浦港で買い受ける。筆者はその指導に根気が必要だったので2シーズン駐在した。対馬海峡の海水温は、冬期でも常時14度である。「飼い馴らし」最低4日間必要である。標準35総屯型で、4活間に2,000kgしか積めない。上り航、片活間に立栓は3ヶ所しか開栓しない。5の間は開栓しない。凪でも外洋性のウネリが高い。エンジンの冷却水温度は約40度である。この冷却水パイプを、ブリッジ横前方に取り出し活間槽中心部に、50ミリパイプを大間(船尾側)から4の間迄引き、各間、活間毎にストップ・バルブ(開閉水栓)を取付け、両主管を太ゴムホースでつないで温水注水する。
 下関西口に近づくと、温度計で外の海水温を時々測定して13度、12度になって来たら、タテ栓を2ヶ所閉栓し、開栓は1ヶ所だけにして、下関海峡を通過、宇部沖に達すると、外海水温は10度となる。松山市沖でも約10度、活間内水温を12度以上に保持する。明石海峡に達すると、外海水温は8度、7度となる。富島港又は岩屋港に寄港して船主が乗り込む。他の活ダイ積船入港があるので、一日で一隻分の鯛を販売すると、値くずれがおこる。午前1時、神戸港兵庫突堤に入港接岸、半分量をシメて荷揚げする。鯛をマットレス上にすくい上げシメるのであるが、鯛がバタついてあばれる。それは外気温が0度付近なので、その体感温度差であばれると考えられている。その鯛を大人しくさせるためには上側の眼を左手指で、そっとふたをする。すると急に大人しくあばれなくなる。その瞬間にシメ鈎(かぎ)をうちこんでシメる。シメた鯛は、ブリキ缶(フタ付)、トラックで神戸、大阪、京都の中央市場に卸し販売する。活魚船は活間内の水温12度を保持するため、和歌浦港まで南下して入港する。和歌浦港では海水温11度~12度である。よって立栓を片活間6ヶ程、開栓する。その水温になると鯛はゆっくり回遊している。同船は同夜半、午前1時再度、神戸港兵庫突堤に接岸、残りの半量荷揚げして完了する。(和歌浦港出港時タテ栓開栓は1ヶのみとする。引きつづき冷却温水を活間に注水して活間内海水温12度を保持する。)註:タテ栓を閉栓する時は、柄の長さ1,8mのヤットコ状のタテ栓つかみ機を使用する。同タテ栓を開栓する時は、長さ約1,8mの長柄付きの大ハンマーを使用する。
 冬の活ダイは延べ縄漁なので、良型で魚体も強いのであるが、瀬戸内海の海水温が低いので大阪活着率は約7割~6割位である。昭和30年頃、美津島町根緒漁協がそれ迄の買受社(若丸)の魚代金の支払いが常に遅延しているのを嫌って、大日水産と契約した。大日水産の駐在員は若手の幹部だったので、根緒漁協に何回か現場視察に訪問した。ところが駐在員は、うかぬ顔で(鯛が飼い馴れてない)という。港内はせまく、すぐ外は外洋で港口からうねり波が出入りし、竹活簀がいつも動揺していた。鯛延べ縄船の操業方式にも問題があるという。即ち、漁獲した沢山の鯛を船首側の一活間につめこみ、日没後エサの「するめいか」を船尾側の二活間に広く泳がし、エサを大切にして帰港してくる。だから鯛がスレて弱いし飼い馴れない。根緒漁協の鯛は当時、大阪活着率5割位であったと考えられる。
 昭和35年頃、比田勝港のかねか商店の活簀場に佐賀県名護屋市の鯛一本釣漁船が鯛の売りこみに来た。よく話を聞いてみると、その漁船は船底に砂を厚く敷き小エビを活かしてある。漁場は対馬北端豊崎(岩暗礁帯が北東方向に約10㎞のびている。潮流も速くいつも打ちよせる波で、真白になっている難所である。)を回り、西海岸を少し南下し、比田勝港の反対側に在る佐須奈港の少し西よりの棹(さお)崎の陸地に近い漁場である。一本釣のため鯛は少し小型である。名護屋船団より豊崎を回って比田勝港へ帰港し、売り渡すのはきついので佐須奈漁港内に活簀の設置を要請された。早速、佐須奈漁協に活簀場設置と買入業務を委託した。同漁協は快諾してくれた。活小エビのエサが少なくなると、2隻の漁船が名護屋港へ帰り、同活小エビえさを満載して、佐須奈港にもどり操業を続行した。地元、佐須奈港の一本釣り漁船も名護屋船団方式を見習って、活小エビえさによる鯛一本釣りを始め、並に釣れるようになった。佐須奈港は同鯛が豊漁なので、かねか商店の活魚船は多忙であった。時化が多い冬場なので豊崎を回航するのに難渋した。
 昭和37年、時化ると各船主の配船の都合により、大阪市場に活ダイの入荷が全くとぎれる日が出きることに気がついた。そこで、かねか商店は福岡市に最も近い初瀬浦生簀場より自船で福岡空港最終便の飛行機に積み込み、大阪市場で販売するプランを考えた。周到に準備し、日通とダンボール箱、木綿を利用する段取りをした。活鯛大阪市場、皆無の日が来た。神戸より実行の指示をした。飛行機はDC8のプロペラ機であった。福岡港で午後8時半シメる。段ボール箱に木綿につつんで詰める。午後9時日通トラックに積み込む、福岡空港発午後10時30分、伊丹空港着午前0時である。筆者は水産運輸のトラックにのり、伊丹空港に荷受けに行き大阪魚市場に卸した。魚体の着荷状態の発色は鮮やかでよかったが、鯛の身は少し堅目、少し硬直がきてる状態であった。仲卸しの人達の講評は「少し身が締りかけであるが、活ダイの皆無の日に航空便で大阪市場に出荷して下さることは、非常に有難い」との好評を得た。最初の出荷量は400kgだった。その後、その穴場が時々あるので、航空便をよく利用した。