変遷編

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 昭和27年、兵庫県水産課は、冬期の淡路島の漁業振興の目的で、鯛のべなわ船の長崎県対馬への出漁船を募集、支援事業を展開した。淡路町、津名町、北淡町、西淡町より多数隻出漁した。かねか商店も筆者が淡路出漁船団に同行して、美津島町芦ケ浦に活簀場を設置した。少量の鯛の買い取りを続けた。西淡町丸山船団は船も少し大きく、焼玉エンジンであったので、1月末迄、操業を続けしっかり学習して引揚げた。他町の船団は断念した。丸山船団は、対馬漁場に対応できる漁船、燒玉エンジン20馬力級を新建造して、約10隻再出業し、数年間、好成果をあげた。かねか商店のカ活魚船は下り航、丸山漁港より米、味噌等を積み補給した。加齢現象で出漁船は無くなった。
 昭和30年頃、長崎県島原半島西有家町船団約20隻が、対馬美津島町緒方漁港を基地として操業していた。漁船は大型で好漁をしていた。買受運搬船が鯛の代金を支払わず倒産した。その後買受申出社は九大日水産(日野顕徳氏)、カ商店(日野春義氏)、ハ富栄丸(宗和春太郎氏)の3社であった。会談の結果、鯛代金の未納金を3者が分担して支払う。船団を3分割して3社が買受ける。活簀設備はそのまま使用できたので、3社はそれぞれ駐在員を派遣した。この取引は後年迄続いた。
 昭和40年頃、高浜漁協が「若丸」の魚代金支払い遅延にたまらず、国、県の補助を受けて、高浜漁協所属の50屯型(鋼船)運搬船を新建造して、京阪神市場迄、運搬販売する様になった。「若丸」は対馬バス交通も経営していた。金宝丸はこの頃、第28金宝丸(鋼船、低速ディーゼルエンジン、70屯、福岡市徳島造船)で、初めて鋼船活魚船が新建造された。