五色町鳥飼浦から、一宮町尾崎迄は潮流の弱い地域で、風を捉えるしかなかった。北淡町室津迄来ると潮に乗れる。明石海峡東流(干き潮)の時間に間に合わせる為に、富島の西隣村浅野村の海浜では、大正中期頃迄、活船の浜曳きが行なわれていた。舟子2人が上陸し、ロープで船を曳くのである。艏が砂浜に当たるのを防ぐ為、1人の舟子が水棹で浜を突いて放すのである。富島歴史民俗資料館の元館長富永氏が、現実に見聞していた。明石海峡を東流に乗り通過すると南西風(甲子園の浜風)を利用して、大阪港沖に到着、立栓で自然換水口を塞ぎ(肩と頭迄水中に入れる)、桶で海水を掻い出し浮かせ締めをする。(左手親指と人差指で、鯛の口元を掴み鯛を海面に水平状に浮かせて、〆鈎を眼の少し上の急所に打ち込む)終ると、海水を全て掻い出し鯛を夜風の冷気に当てると、少し赤く発色する。
安治川は川幅広く、流れも速いので避けた。川幅も狭く、流れがゆるやかな尻無川を3丁櫓、4丁櫓で溯江、夜明け迄に大急ぎ雑喉場の浜へと威勢よく、他の船、追い越し漕ぎ上がり、雑喉場浜へ着き水揚げした。
旧来より、「伊達(だて)の鯛積み」と呼ばれ、うまくいっても利益は少なかった。時化に魚体を傷めると欠損となる。輸送コストが高い。35総屯型で積載量は、鯛2,500kg、ハモ8,000kg、蛸6,000kgである。
富島發動機船三業組合船氏名一覽表(昭和10年2月現在)
富島發動機船産業組合船氏名一覽表(昭和7年2月現在)
備後灘佐柳島本浦港から小島(無人島)と高見島との間を通る生船航路