魚商人と出買船

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 淡路島机浦(富島町)における鮮魚流通の分析、享保年間(1716年-1736年)出買鑑札33枚が発行され、庄屋島田記兵衛氏が管理したとあります。「兵庫県漁業慣行録」富島浦の出買船は、その少数一部が吾智網鯛(最も弱い)と1本釣りの丸アジ(翌未明までしか活きない)、ベラ等を当日夜、明石浦へ運び販売した。他の大多数の出買船(長さ約30尺、帆柱1本、短冊帆1枚、三角帆(三切り帆)1枚、乗員4名)は、淡路島南西部の丸山漁港、阿那賀漁港、福良漁港、鳴門市小鳴門堂の浦方面にて午後、沖買いして(約3日間)、夜は少し潮流のある島影に投錨泊する。活魚槽内の酸欠を防ぐ為、帆柱頂部の滑車を使用して、土俵を高さ約1間半(約2.5m)に吊り上げ、船首より別のロープで土俵を繋ぎ、更にもう1本のロープを土俵に繋ぎ、人手で土俵を左右に揺らし船体をローリングさせ、船底の自然換水口からの海水を出入りさせて、活魚の酸欠死を防ぐのである。交替で不寝番をした。これはキツイ仕事であった。上り航は潮流を見定め、風を掴まえなければ、午後は漁港沖で帆柱上に大漁旗を掲げて出買船の目印とした。帰港する漁船が集ってきて、値決め検量して買取った。魚種は、釣り鯛、スズキ、チヌ、イサギ、ハマチ等であった。ハマチは特に気を遣った。酸素を多く必要とするので夕刻、投錨泊、直後、張り手綱(直径2mの竹輪2ケ入れて袋状網)に入れ、船底の下に吊り下げた。酸欠にならない。
 五色町鳥飼浦から、一宮町尾崎迄は潮流の弱い地域で、風を捉えるしかなかった。北淡町室津迄来ると潮に乗れる。明石海峡東流(干き潮)の時間に間に合わせる為に、富島の西隣村浅野村の海浜では、大正中期頃迄、活船の浜曳きが行なわれていた。舟子2人が上陸し、ロープで船を曳くのである。艏が砂浜に当たるのを防ぐ為、1人の舟子が水棹で浜を突いて放すのである。富島歴史民俗資料館の元館長富永氏が、現実に見聞していた。明石海峡を東流に乗り通過すると南西風(甲子園の浜風)を利用して、大阪港沖に到着、立栓で自然換水口を塞ぎ(肩と頭迄水中に入れる)、桶で海水を掻い出し浮かせ締めをする。(左手親指と人差指で、鯛の口元を掴み鯛を海面に水平状に浮かせて、〆鈎を眼の少し上の急所に打ち込む)終ると、海水を全て掻い出し鯛を夜風の冷気に当てると、少し赤く発色する。
 安治川は川幅広く、流れも速いので避けた。川幅も狭く、流れがゆるやかな尻無川を3丁櫓、4丁櫓で溯江、夜明け迄に大急ぎ雑喉場の浜へと威勢よく、他の船、追い越し漕ぎ上がり、雑喉場浜へ着き水揚げした。
 旧来より、「伊達(だて)の鯛積み」と呼ばれ、うまくいっても利益は少なかった。時化に魚体を傷めると欠損となる。輸送コストが高い。35総屯型で積載量は、鯛2,500kg、ハモ8,000kg、蛸6,000kgである。

富島發動機船三業組合船氏名一覽表(昭和10年2月現在)


富島發動機船産業組合船氏名一覽表(昭和7年2月現在)


備後灘佐柳島本浦港から小島(無人島)と高見島との間を通る生船航路