城下町「明石」の成り立ち

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 城下町としての明石の歴史は、元和4年(1618)に小笠原忠政(後、忠真と改名)が徳川2代将軍秀忠より明石に新城の築城を命じられた時に始まる。
 慶長5年(1600)、“天下分け目”といわれる関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた。その後も徳川方と豊臣方との確執は続いたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣を経て慶長20年(1615)、徳川方・豊臣方の決戦となった大坂夏の陣において豊臣方の象徴であった大坂城が落城し、豊臣氏は滅亡した。
 小笠原忠政は、大坂夏の陣において自身が重傷を負いながらも戦ったのみならず、父・秀政と兄・忠脩が戦死するという大きな痛手を受けた。しかし、これらのことによる論功行賞によって、元和3年(1617)に信濃国松本から2万石加増で、明石10万石を与えられた。内訳は、明石郡48,387石余、三木郡37,405石余、加東郡内11,385石余、加古郡内2,821石、合計10万石であった。この頃、豊臣氏を滅ぼした徳川氏は幕府の体制作りや全国支配の基礎固めに全力を注いでおり、小笠原忠政の転封もその一環として行われたものであった。豊臣氏滅亡後も依然、幕府にとって大きな脅威として存在する豊臣家恩顧の西国大名に対する“押さえ”のため、姫路に譜代の本多忠政(家康の孫娘国姫の夫)を伊勢国桑名から5万石加増の15万石で転封させた。また、同時に長男忠刻(ただとき)(家康の孫娘千姫の夫)には部屋住みのまま播磨国内の10万石を与え、次男の政朝(まさとも)を姫路の前衛として龍野5万石に封じ、さらに本多忠政の娘婿であり、徳川家康の外曽孫(家康の孫娘福姫の子)にあたる小笠原忠政を姫路の後衛として明石に配した。このように、幕府は本多一族を播磨におくことによって西国外様大名に対する防衛体制を固めたのである。これにより“明石”という地は幕府にとって重要な意味を持つことになった。

「播磨国明石城絵図」(国立公文書館内閣文庫蔵)

 小笠原忠政が入部した頃の明石の城は、明石川河口部西岸の「船上城」であった。ここは、西に広大な「いなみの台地」を控えた低地に立地しているため、西方からの攻撃に対する防衛条件は不利であり、また、元和元年(1615)に発せられた「一国一城令」により、門・塀・殿主などの城としての重要な部分はすでに取り壊されていた。そのため、2代将軍秀忠は元和4年(1618)、小笠原忠政に対して明石に新城の築城を命じた。それを受け、小笠原忠政は岳父である姫路の本多忠政とともに新城の候補地を探し、「蟹ヶ坂」「人丸山」「塩屋」の3ヶ所を候補地とし、さらに検討を加え、最終的には「人丸山」(現在の明石城跡)に絞り込んだ。本多忠政は明石に留まって城地割・縄張を行い、絵図と模型を作製して江戸へ送り、将軍秀忠の裁許を得た。幕府は明石新城の築城にあたって費用援助として銀千貫目を与え、3人の奉行人を派遣し、築城工事は始まった。「本丸・二の丸・三の丸の石垣・土居・塀の普請」は幕府派遣の奉行が行い、「矢倉・門・塀・家造りの普請」は小笠原忠政が行った。築城自体は元和5年(1619)に完成したが、侍町の惣堀・土居・三の丸前向の石垣は“八年後”に出来上がった。なお、本丸には天守台はあるが“御天守ハ終ニ建不申候”と小笠原家の史料『清流話』に記されていて、天守の建物は建てられなかったことがわかる。

船上城跡(昭和30年代)


明石城天守台(左)と坤櫓