城下町を造る

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 「慶長播磨国絵図」(天理図書館蔵)により、明石新城が出来る以前の様子を知ることができる。南北に流れる明石川の西岸「ふなげ」の西に「明石古城」がある。東岸の山上に描かれた建物には「人丸」と記されていて、人丸の古社であり、この場所が後に新城が築かれる「人丸山」である。(現在の人丸社は築城時に東の山上に移された)この山と前面(南側)の海岸との間には「大明石村」と「中ノ庄村」の2村と山際を東西に伸びる街道しか無く、比較的広い空間があることがわかる。この空間に城下町が建設されることになる。

新城以前の明石(「慶長播磨国絵図」より作成)

 ではなぜ、ここに広い空間があったのであろうか。この付近の古地形を復原した調査報告がある。それによると、明石川・伊川は現在よりも東に向いて流れていた痕跡(旧河道)があり、海岸から丘陵の間には東西に細長い砂堆(小規模な砂丘)が3列あり砂堆と砂堆の間には後背湿地が同じく3列存在している。ややまとまった規模で、集落立地が可能と思われる場所は現在の明石港北西部と明石川河口東部にみることができ「慶長播磨国絵図」に描かれた「大明石村」と「中ノ庄村」の場所に一致する。この場所以外は、小規模で細長い砂丘と湿地の繰り返しで、その中を旧河道が西北から東南へ向けて貫いており、集落立地としては不向きであり、城下町建設時の土木工事により大規模な集落立地が可能になったと考えることができる。また、現在の人丸山東部を直線的に海岸まで南流(現在は暗渠(あんきょ))している両馬川は、扇状地先端部付近(長寿院東南部付近)で砂堆に流れを妨げられ、西へほぼ直角に伸びる後背湿地を西流し、西北から流れてくる旧明石川の流れと合流し、南へと流れていた様子が読み取れる。この旧明石川と旧両馬川の合流点から南は江戸時代、明石城外堀から港東部である内川へと水が流れる「大溝」であり、西国街道との交点は城下町の東の番所(防御施設)「京口門」に当たる。この「大溝」は東の「両馬川」とともに城下町、特に町屋東部の外堀の役割を果たす重要な施設であるが、「京口門」と「大溝」がこの位置にある理由はこのような微地形から推定できる。

微地形図(『明石城武家屋敷跡』兵庫県教育委員会1992を加工)

 両馬川は明石城城下町の東側を直線で区切る外郭線であり、城下町建設時の基本計画により流路が変更されたと考えるが、明石川においても同様で、流路を西へ変更し、城地西部に土地を確保するとともに、旧河道を利用して外堀を設けたと考えられる。
 城下町建設に伴い付替えられたものに街道がある。「慶長播磨国絵図」でみたように東西に伸びる街道は「人丸」の山の下を通っていた。これは奈良時代に整備された「古代山陽道」の名残りであり、現在でも沿線各地でその痕跡付近を通る古い道筋を見付けることができる。この古い街道は新城の主要部となる丘陵(本丸)の直下を通過するため、南の海岸近くへ移された。この付替えが明石の城下町にとって大きな意味を持つようになる。
 明石城は武家屋敷地を外堀で取り囲み、町屋と明確に区分した「郭内専士型」と呼ばれる近世城下町の特徴を備えている。外堀と海岸までの距離は本丸正面の追手付近で約300mという近さであり、そのほぼ中間を東西に街道を通し、街道に沿って町屋を設けた。そして、築城後間もなく本丸の南の海岸に港を築くことにより、陸上交通と海上交通の接点としての物流を生み、城の前面(南)は西国街道に沿った東西に長い町屋として栄えることになる。
 享保6年(1721)頃成立した明石藩内の地誌『明石記』には、城下の町割(町屋の計画)は“宮本武蔵と云う士”が行ったとあることから、当時、姫路藩主本多忠政の子、忠刻の客臣として姫路に滞在していた剣豪として知られる「宮本武蔵」が行ったものとされている。また、町屋の奥行は16間(約29m)であったとも記されている。

『明石記』より