両馬川が西流していたことについては、『平家物語』が伝える平忠度(ただのり)の最後の話とも関連する。寿永3年(1184)2月7日、須磨一の谷の戦いで敗れた平忠度(平清盛の末弟)は西へ落ちたが、源氏方の岡部六弥太忠澄に明石の両馬川で追いつかれ、右腕を切り落とされ、討たれる。馬を並べて戦った川に因んで「両馬川」という名前がついたと伝えられている。この時切り落とされた忠度の右腕を埋めた塚を祀るという「腕(右手)塚神社」がある。この塚(神社)は両馬川の流れより西へ約150m離れた所に位置していたが、現在は約90m東へ移転している。この塚(神社)と川との距離差は、かつて川が西方向へ流れていたということを表しているのではないかと思われる。伝承を援用した地形復元である。
大正14年「明石市全図」より