「明石城下全体構成図」
城下全体の外郭線は、南は明石海峡、東は両馬川、西は明石川、北西部は伊川の流路により区画されている様子が見て取れる。西には明石川を越えて、築城時に付替えられた街道に沿って南北に足軽屋敷が配置されている。これは、西の脅威である西国大名による攻撃に対して、より強固な備えをしていたことを示している。絵図類には北部の外郭は描かれていないが、西北部は伊川の流路と段丘崖との組合せによる防御線が明らかである。これに繋がる北の段丘上には堀などの明確な防御施設は存在していないが、明治期の地形図や昭和21年米軍撮影の空中写真などとともに現地を調べると、東北部の両馬川によって形成された谷と西北部の伊川の流路とを結ぶ小規模な谷地形が認められ(現在も旧明石城域である明石公園北部に明瞭な崖面が残る)、その結節部には新城築城時の明石藩主小笠原忠政により再建された高家寺が存在し、伊川谷・太山寺方面への古道が通じている。この高家寺が明石城下東北部の防御・監視的役割を担った施設に相当すると思われ、両馬川-高家寺-伊川を結ぶ城下北部の外郭線を想定できる。
明石公園北部の谷 昭和21年米軍撮影空中写真 国土地理院(USA-M324-A-6-39より)