武家屋敷地は前述のように、外堀の内側に設けられた。築城当初は中堀(現在、明石公園の東・南・西を囲む堀)の内側に家老や藩主一族などの重臣クラスの屋敷地が存在したが、間もなく中堀内の公的施設(会所・勘定所・米蔵)化が進み、重臣たちの屋敷地は城の前面(南)東西の中堀沿いと城の正面である追手筋(南北の通り)沿いに移る。初代の小笠原氏以降、藩主の移動に伴い、屋敷地に居住する家臣も移動するが、家臣配置の傾向は概ね変わらず、外堀の三方に設けられた大蔵門・山下門・王子門の周辺には30俵3人扶持程度の中級クラスの家臣を多く配置し、城門の警備を固めていた。