寺院には大規模な建物があり、戦時に多くの兵員や物資などを収容することができ、防御施設の役割を果たすため、足軽屋敷と同様に町の出入り口近くに配置された。いわゆる「寺町」であり、東は人丸山周辺から街道・港にかけて、西は明石川東岸部の街道南側に寺院が集中している。明石には城下町建設以前には大きな集落がなかったため、古い歴史を伝える西の寺町に所在する善楽寺・長林寺以外の多くの寺院がほとんどで小笠原忠政による移転や開基伝承を伝えていて、城下町建設時やそれ以降に建てられたと考えられる。小笠原忠政は、松本から「開善寺」「大隆寺」「宗玄寺」「峯高寺」「法性寺」「本立寺」「光久寺」「安楽寺」を伴って明石へ移ってきたが、16年後小倉へ転封(所替え)の時にはやはり同様にほとんどの寺院が移った。城下町の寺院は、藩主一族やその先祖の菩提寺となっている場合があるため、藩主の転封があればそれに伴って移転する例が多い。移転により空き寺となった寺地には、次に入部する藩主に伴って移って来た寺院が入ることになる。この場合、埋葬地は移すことなく次に入る寺院が供養を引継いでゆくため、寺院自体は移転していても、以前の藩主ゆかりの事績などが次の寺院のものとして伝えられる場合がある。絵図により、東の寺町の変化をみると、天和2年(1682)松平直明の明石入部以降「長寿院」となる寺地には、以前「本性寺」「浄真寺」があり、元禄4年(1691)に船上から移転してきた「本松寺」の寺地には「清水寺」「三乗寺」があったことがわかる。
“東の寺町”藤井松平期(上)と大久保期(下)の絵図(部分)『講座明石城史』付図より