まとめ

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 明石公園内の石垣・巽櫓・坤櫓、中堀とその南に佇む織田家長屋門を目にしたとき、明石が城下町であることに気がつく。鷹匠町・東仲ノ町・桜町など聞きなれた町名と残された絵図を比較することによって、明石駅を中心に広がる市街地の都市設計が江戸時代初期に始まることがわかる。また、『寛政重修諸家譜』(1789~1801)『御家中知行高并役附』(1731)などの文献資料からは、明石藩の動向や職階制を始めとする武士の公的な職務を明らかにすることもできる。
 一方、発掘調査で検出した道路跡や地割り溝、屋敷名の記された木札や記名土器は、現在に伝わる絵図の信憑性を裏付け補完する。また、皿・鉢・碗・擂鉢・炮烙などの日用雑器、骨・種子・焼塩壺などの食物と調味料、子どもの健やかな成長を願い埋められた胞衣壺(えなつぼ)、音色を楽しむために設置された水琴窟(すいきんくつ)などの出土遺物は、武家屋敷における社会・経済・文化という側面を明らかにする上で重要な資料となっている。明石城武家屋敷跡の発掘調査は、新たな事実を求め現在も継続して進められている。
道路側溝(山下町)
道路側溝(山下町)
上水道・会所桝(大明石町1丁目)
上水道・会所桝(大明石町1丁目)
粕谷家・池(明石市大明石町2丁目)
粕谷家・池(明石市大明石町2丁目)