寺院の発掘-雲晴寺

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 東の寺町、人丸山の麓に位置し、慶長18年(1613)開基と伝えられている。昭和20年7月7日の空襲により山門以外を焼失したため詳細は不明であるが、境内に残る石塔などから、第4代藩主大久保季任が美濃国加納から明石へ入部した寛永16年(1639)に、大久保家により新たに設けられた寺院であると考えられている。
 平成15・16年、本堂新築にともない発掘調査が実施され、江戸時代初期の本堂の一部及び地鎮を行った痕跡や藩主松平家を支えた多くの家臣とその家族の墓(棺桶)が確認された。浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」(宝暦8年(1758)に竹本座で上演されて好評を博した)の主人公生田傳八郎の実兄、庄林宇右衛門が享保13年(1728)に91歳で亡くなった父八左衛門のことを記した砂岩製の墓誌が見つかっている。墓(棺桶)の中には一文銭である寛永通宝が6枚収められていることが多く、“三途の川の渡し銭”といわれる“六文(道)銭”を死者に持たせた風習が認められる。また、本堂の北側から、戦災による焼け瓦で埋め立てられた深さ約1mの池と大小の石と木杭により護岸された築山からなる庭園の一部、池に架かる花崗岩製の石橋が確認された。この庭園跡は出土遺物から江戸時代初期に築かれた可能性があり、同寺に伝わる宮本武蔵による作庭説との関連も興味深い。
*生田傳八郎は後に自決し、雲晴寺にある母の実家鳥村家の墓域に葬られたという
庄林宇右衛門による父の墓誌
庄林宇右衛門による父の墓誌
庭園の一部(池、築山の護岸、橋)
庭園の一部(池、築山の護岸、橋)
棺桶内から出土した六文銭
棺桶内から出土した六文銭
「敵討崇禅寺馬場」の登場人物(左下が庄林宇右衛門)
「敵討崇禅寺馬場」の登場人物(左下が庄林宇右衛門)