概説

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 武家屋敷地の特徴は明治16年に作成された「播磨国明石郡大明石村全図」により知ることができる。この図は、各屋敷地の中を基本的に家屋(白色)・畑(茶色)・田(黄色)に分類している。家屋は道に面して配置され、その背後に畑あるいは田があるが、外堀内の様相をみると、追手筋の東と西では大きく異なっている。東は黄色がほとんどで、田が多いことを示している。この地域は上ノ丸の段丘崖からの湧き水があったり、旧地形が後背湿地であるため地下水が豊富で、「沼ノ町」と呼ばれる。西は畑を表す茶色がほとんどで、明石川の旧流路により形成された自然堤防や微高地の地域であることがわかる。

「大明石村全図」(明治16年)

 武家屋敷の居住者は藩主(家)の移動により変わるが、天和2年(1682)に松平直明が越前大野から入部して以降、明治維新までの約200年間は藩主(家)の移動がなかったため、居住者の変化を資料によりみることができる。出世や降格、役職の移動、当主の隠居や死亡による代替わりなどの諸事情により、屋敷替えが行われている。

武家屋敷地変遷図① 享保6年(1721)頃

①「彦御丸様」
太鼓門の西(左側)、中堀に面して「織田」の隣に位置する屋敷地の「彦御丸様」は、第8代(明石松平初代)藩主松平直明の子「彦丸様」で正徳6年(1716)1月19日に生まれ、享保11年(1726)6月17日に亡くなった。

武家屋敷地変遷図② 文政(1818~1830)頃

②「御新屋敷」
太鼓門と樽屋門の中間に位置する。以前は「井上」であったが、藩主の近親者の屋敷へと変わった。第11代(明石松平4代)藩主松平直泰の第33子(16男)で、享和元年(1801)8月4日に生まれ、明治5年(1872)7月8日に亡くなった護五郎の屋敷となる。

武家屋敷地変遷図③ 文久年間(1861~1864)

③-1「指月院」
太鼓門の東(右側)、中堀に面した屋敷地「指月院」は第11代(明石松平4代)藩主松平直泰の子美千(賰・晋)姫で享和3年(1803)5月19日に生まれ、文政6年(1823)12月、旗本畠山基利に嫁いだが、文政11年(1828)10月に離縁し、明石で暮らし、明治5年(1872)8月28日に亡くなった。
③-2「講武所」
安政6年(1859)に設けられた兵事に関する修業を行う藩の施設。武芸全般および兵学を講義した。敷地内に白龍権現を祀る。慶應2年(1866)6月1日明石藩の長州征討軍はここから出発した。
(『明石城武家屋敷跡Ⅱ』兵庫県教育委員会2003収録図を加工・修正)
 
 武家屋敷の様子は今では見ることができないが、図や写真などの資料から推定できる。
 家老職を務めるような重臣の屋敷は城の前面、中堀に面した場所にあった美濃部家と津田家の図がある。美濃部家は城の正面追手筋の東側、北の角地にあり、玄関は追手筋に面した西向きである。津田家は城の前面西側にあり中堀に沿った道の南にあり、玄関は北の道に面した北向きで、坤櫓と向き合うような位置にあるともに敷地は広く、長屋門を備えている。幕末に家老職を勤めた黒田家の屋敷は昭和4年頃の写真(P25)が残っていて、茅葺屋根の建物など大変参考になる。

美濃部家屋敷指図


津田家屋敷図『津田家小史』(津田貞太郎1994より)

追手門西の黒田家家屋写真(昭和4年頃)1追手門西の黒田家家屋写真(昭和4年頃)2追手門西の黒田家家屋写真(昭和4年頃)3
追手門西の黒田家家屋写真(昭和4年頃)

 中級藩士の屋敷図は東不明門の南、南北道の西側、速水家のものがある。重臣の屋敷とは異なり、小規模ではあるが、仏間を中心に台所や納屋、風呂を離れにして配置している。

速水家屋敷図(家相図)

 鷹匠町にあった武家屋敷の様子が『聞き書きあかし昔がたり』(もくせい文庫1979)に掲載されている。「母屋は玄関に三畳、四畳半、八畳の間、台所は板敷きの八畳、これに二畳のフロ場。離れは玄関に六畳の間と炊事場、どちらもワラぶき屋根だった。さらに納屋があり、庭も広かった。屋敷の周囲は生けがきをめぐらし、生けがきの前を流れるミゾの両側には季節になるとアヤメやカキツバタなどが咲き乱れ、出入りの花屋がよく切り花にしていた。(中井りくさん)」速水家より部屋数は少ないが、基本的に同様の配置のようであり、速水家の図と併せて考えると、明石の一般的な武家屋敷の姿が浮かんでくる。