平成2年に屋敷跡北西角の発掘調査が行われ、『新明石の史跡』に井戸3基・不用品を捨てた土坑などが検出されたことが次のように述べられている。
「皿、碗、漆器碗、鉢、瓦、土人形、桶など多量の遺物が出土したが、この中で注目されるのは焼塩壼である。粗塩を臼で細かく粉砕しコップ形の小型容器に入れ、窯で高温に熱するとニガリなどがとれ、真白な焼き塩が出来上がる。いわば当時の高級食卓塩で、それを入れる容器を焼き塩壼という。この壼が土杭から30点もまとまって出土しており、上級武士が生活をしていたことを明らかにする一つの資料となっている。」
焼塩壼
明治16年の「大明石村全図」(P22)では、織田家の屋敷地はほぼ全域が「畑」「藪」になっており、宅地は北側の通りに面した長屋門のある細長い一角だけである。「明治維新のあと、この付近は道に草が生い茂って、人が歩くところだけ道がついていました。御屋敷も次々と手離されてなくなりました。」と織田豊子さん(明治34年生まれ)は語っていた。敷地南西部は明治21年に開通した山陽鉄道の軌道地として大きく削り取られた。明石・織田家十一代信見(のぶみ)は、明治7年に山田村(神戸市垂水区西舞子)の海沿いにある六社神社近くに移転している。
「もとの家の柱は農学校を建てるときに寄付しました」と織田令子さん(昭和3年生まれ)のいう農学校は、明治30年に明石公園内に創立された「兵庫県簡易農学校」(注)のことで、2年後に「兵庫県農学校」の名称になった。明石公園の南側の正門から入ると左側に野球場が見え、野球場の手前に「県農発祥の地」と刻まれた石碑がある。廃城により、明石城居屋敷郭の切手門が払い下げられ、人丸山月照寺の山門として移築されたように、織田家の屋敷材も学校建築に役立てられたということである。
(注)大正11年に加古郡平岡町新在家(現加古川市平岡町新在家)に移転。昭和23年「兵庫県農業高等学校」と改称、その後「兵庫県農科大学短期大学部附属高等学校」を経て、昭和32年に「兵庫県立農業高等学校」となった。
山田村に移転していた信見は明治44年に元の場所に本宅を建築して戻る。この屋敷は総二階で200畳近いものであった。昔は井戸が七つあったといわれているが今は三つである。敷地内に白龍社を祀っていた。「大玄関」は身分の高い来客を迎えるときや、草履などを履かずに駕籠に乗るための板張りの式台が付いた武家屋敷特有の家格を表す式台玄関であった。前に戸はなかったがのちにガラス戸を付けた。大玄関には幅一間ぐらいの黒塗り枠で松竹梅が描かれた衝立が据えられていた。東側は板戸で黒塗り枠の上に槍と長刀が掛かっていた。「座敷」の東は「中の間」、その東に「仏間」があり、押し入れ仏壇にはたくさんの位牌が祀られていた。仏間は「おじぶっつあんの部屋」と呼ばれ、昔は敷地内に持仏(じぶつ)堂があったという。座敷の西に「西の間」があった。大正14年に二階が火事になり、その後修復した。長屋門の西側部分には4軒ほどの長屋があり、一時市場だった。当時、東隣に住んでいた親戚の津田貞太郎氏は「子どものころ津田家から鷹匠町方面へ行くためには裏の地続きの畦道をとおって織田家のくぐり戸をお通しくださいと声をかけて通り織田家の門から出入りした。邸内の畑地を通って地続きの市場(織田家の借家)へ買い物に行くことが一つの習慣となっていた。信見は老いてからも畑仕事をよくしていた」と記憶を綴っている。(『津田家小史』(注))
(注)『津田家小史』は、1930年まで織田家の東隣の旧藩士津田家で暮らした津田貞太郎氏による明石・織田家、明石・松平家、津田家の家譜、家族史。