(2)松平氏明石入部以降

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 五代冨信天和2年(1682)5月29日松平直明が明石に入城した時の行列に「津田冨信(大名分)」の名がある。翌6月1日直明は、家老格として仕えていた冨信を江戸に遣わし、将軍に両樽二種を献じて一万石加増の転封に対する謝意を述べさせた。

冨信の墓石(雲晴寺)

 六代信憲宝永元年(1704)7月家老として登用され、石高は「御家老侍大将仕置役御役料共八百石」となり、以後明治4年(1871)の廃藩置県まで家老職として続いた。正徳3年(1713)姓を元の織田に改める。
『津田家小史』に次の付記がある
 本苗織田に改めるについて「織田家譜要記」には次の覚書がある。
 
 左の通り御願の処願之通相識
             口上之覚
 私只今の名先祖に御座候処先年大殿様より相改め仰、仰付有難く存じ
 即(ママ)刻四代以前織田十郎左衛門と申す本名之儀に□御座候間私儀織田に
 相改め名苗字共に相続仕度聞願度此段御仰(ママ)を以て相違、御聴願之通に
 仰付□難□可聞存(ママ)候右之趣然る可様御取成可被下度願入存(ママ)候以上
   正月29日(1713)        津田十郎左衛門
    間宮源兵衛 様
    美濃部丹下 様
    今枝半右衛門様
 
 七代常晋(1714〜1778)、享保16年(1731)「御家中知行高并役附」(神戸市・森本家所蔵文書)では、常晋は「織田左右衛門菊三郎」と記され、石高は「五百七十石」である。
 八代信達(1744〜1820)
 九代信睦(1802〜1842)