(3)明治維新前後

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 十代保(安芸信令1831〜1895)、万延元年(1860)の座並帳(注)では、最上位の「御家老」の欄に「黒田半平長棟」「丹羽安房好従」「尾崎久兵衛成琛」「織田安芸信令」「間宮源兵衛定弼」の名がある。織田安芸の石高は「六百七十石内百石役料」である。文久2年(1862)「奥平又内源清雄」の記した陣立て「三隊御備之圖」(大山家所蔵文書)には、「士大将織田安芸」が見られる。この陣立ては訓練用のものと考えられるが、『明石藩略史』には、慶應4年(1868)2月「太政官代から親征によって京都丹波口の警衛を命ぜられたので、織田信令と小泉長裕が兵を率いて上京した」とある。また、文久3年(1863)に取りかかった舞子砲台(コラム「勝海舟書状」参照)の築造工事においても明石藩の主幹を務めており、幕末期の家老として重責を果たしていたことがわかる。明治4年7月14日の廃藩置県直後における「明石県」の職制表によると、元家老の織田保(安芸)は間宮三休(能登)とともに、最上職員の大参事となっている。官位は「正六位」、禄高「現米四拾石」である。しかしながら、明石県は、同年11月2日に姫路県(同月9日に飾磨県と改称)に併合される。
 晩年は舞子砲台近くの山田村で暮らした。長州の船が通るとき海沿いを馬で走り、孫たちがあとを追って走ったという光景が伝えられている。
(注)約570名の明石藩士を最上位の「御家老」から「御流頂戴格惣領」まで19の格式に分類し、知行もしくは蔵米による禄高と名前(通称と実名)が列挙されている(『明石藩の世界Ⅲ~藩主と藩士~』)