『明石市史資料(近世編)第六集』所収
明石藩主松平慶憲(よしのり)、嵩翁(斉韶(なりつぐ)、致仕の後嵩翁と号す)から反物料・肴料・袴料を贈られたことへの礼と明石藩の重臣たちの砲術入門(神戸小野浜の海軍操練所、あるいは生田の森の私塾神戸海軍塾のことか)を諾とする書状である。これに呼応する記述が海舟日記の元治元年9月3日にある。
「(前略)明石候より官位の祝として、反物、袴料等を給わる。且、家老四人、砲術入門を乞う。聞く、明石家、旧砲を収め、悉く一途に成し、農兵三百人を募り、銃手に教練す。此故に、我が門に入るなりと云う。(後略)」
「官位の祝」というのは、この年5月14日、海舟が「将軍より御軍艦奉行、御作事奉行格、諸太夫に任ぜられ、安房守と名のることを許された」(「海舟日記」解説勝部真長)ことを指すのであろう。
幕末期、異国船の渡来に備え、大砲台場の築造が全国各地で盛んに行われ、明石藩でも明石海峡に面して多くの砲台が建設された。八砲台、九砲台、十二砲台と諸説ある。JR舞子駅(神戸市垂水区)浜側に国の史跡「明石藩舞子台場跡」(舞子砲台跡)がある。舞子砲台は文久3年(1863)に将軍家茂が大阪湾岸の防備状況の実地視察を行った結果、明石海峡の警備強化を図るため、幕府より金一万両を貸与され改築工事が行われた。『明石藩の幕末維新』によると、明石藩中島流砲術師範の潮田范三が「御砲台御改築御用」に任命されている。築造過程の詳細は不明であるが、文久3年(1863)に着手し、幕府側の指導者は勝麟太郎(海舟)であり、海舟の日記には「明石家老砲台掛り丹羽安房織田安芸間宮能登」の名がある。『明石名勝古事談』は明石藩の主幹は家老織田安芸であったとしている。海舟の日記には、次のような記述も見られる。
文久2年 12月26日 明石の老侯嵩翁君より、鴨二羽を賜わる。
12月27日 明石藩の潮田子来訪時勢を談ず。
文久3年 5月3日 明石より賜物あり。潮田范三来る。
老侯へ早春、微物を呈せし返礼と云う。
5月7日 明石藩、砲台の事にて来る
5月晦日 馬にて明石へ行く。舞子浜に一宿、砲台の縄張、築造の事を談ず。明石の大夫三人、潮田生来り、万事を談ず。
舞子砲台跡の石垣
海舟は砲台築造の実務面の担当者である潮田范三と度々会談をしており、家老たちも砲術入門を求め、「農兵三百人を募り、銃手に教練す」と、この時期積極的に海防に取り組もうとしていたことがわかる。しかし「この砲台工事は元治元年(1864)あるいは慶應元年(1865)に完了したとされるが、砲台に伴う他の付帯施設は構築されず、実際には大砲も据えられずに明治維新を迎えたようである」(『舞子砲台跡第1〜4次発掘調査報告書』)。石垣だけが現在も残っている。織田家所蔵の勝海舟書状は、戦災により屋敷、家財のほとんどが焼失したなかで、かろうじて焼け残った金庫の中より見つかったもので、勝海舟と明石藩の交流を物語る貴重な史料である。