幕末に明石藩の家老を務めた黒田家の文書(神戸大学所蔵)の中に、万延元年(1860)の「座並帳」がある。約570名の明石藩士を最上位の「御家老」から「御流頂戴格惣領」まで19の格式に分類し、知行もしくは蔵米による禄高と名前(通称と実名)が列挙されている(『明石藩の世界Ⅲ〜藩主と藩士〜』)。最上位は「御家老高六百五十石内弐百五十石役料黒田半平長棟」とある。大山三代美虔は第7番目の格式「御番組并同格」、禄高は「二十五俵三人フチ内五俵御増米」であり祐筆役を務めていることによる加増がある。明石藩ではほぼ中級に位置づけられる家である。
大山家陣羽織(家紋は丸に平四つ目)
先祖については「もともとは備中高梁(たかはし)(岡山県高梁市)松山城の侍であった。江戸に出て浪人をしていたところ、参勤交代で江戸在府中の明石藩主松平氏の目に留まり召し抱えられ、明石に来て直井家を継ぐ。のちに、途絶えていた大山家の養子となり大山家を復した」と伝えられている。大山家過去帖の「明石に於ける御先祖」は母登助(もとすけ)(諱は美政(よしまさ))から始まり、三代(美虔)は、母登助(美政)-又四郎(美満(よしみつ))に続き三代目である。先祖が参勤交代の道中で見つけて持ち帰ったという笹、ホウビチク(鳳尾竹)が代々屋敷の前栽に植えられていた。
大山家には、三代の師、江戸時代後期の書家・漢詩人である市河米庵揮毫(きごう)の「山陽堂」の額が保存され、同じく江戸後期の儒学者・書家・文人画家である貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))が天保10年(1839)に、山陽堂を訪れた際に書いた「山陽酔月園」(「酔月」は三代の号の一つ)の額が掛けられている(市河米庵・貫名海屋は巻菱湖(まきりょうこ)とともに幕末の三筆に数えられる)。美虔は戦場などで走り回りながら筆を執る場合に備え、日頃から薪割りなどのはげしい労働をした直後に書の練習をして文字が乱れないように鍛練したといい、大山家ではこの鍛練が代々守られてきた。三代は慶應3年60歳にて没す。
市河米庵「山陽堂」額
大山三代(蒙斎)の書
三代の子、安治(やすじ)(諱は美績(よしなり)、号慎斎)も山陽堂を受け継いだ。『日本教育史資料8(』文部省編)の「私塾」の項に「山陽堂、読、書、算術、大明石村、明治五年廃、教師男一、生徒男五一、女一七、士、大山安治」とある。廃藩置県直後の明治4年「明石県職制表」(大山家文書)には、「神務庶務」の部局の欄に「大山安次郎」(安治のこと)の名がある。禄高は「現米四石」官位「従九位」である。しかし、明石県はわずか4ヶ月で同年11月2日に姫路県(同9月に飾磨県と改称)に併合された。明治5年に学制が頒布され、明治6年明石市域学校表(『明石市史・下巻』)の大明石村の小学校教員氏名に「大山安治」の名が見られる。『明石藩の幕末維新』の中で、旧明石藩儒学者橋本海関は藩士から教員への転身の一例とされているが、安治も同じく祐筆から教員へ転身したわけである。その後創立された明石第五十六国立銀行員(注)にさらなる転身を遂げ、大正3年(1914)の『日本全国商工人名録』では、改組した株式会社五十六銀行の支配人を務めていることがわかる。また、銀行勤めの傍ら、明治17年に転居した桜丁の自宅の十畳間でも大正初めごろまで書や算術などを教えていた。
(注)明石第五十六国立銀行は、明治11年3月創立、6月11日に開業免状を下付せられ、8月4日に開業。明治31年6月に株式会社五十六銀行に改組した。
大山安治氏 |
明治6年 明石市域学校表『明石市史・下巻』より |
『日本全国商工人名録』(1914)より |