(1)もと屋敷

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 大山家の屋敷地は、明治16年に旧藩士の桑原家より購入したもので「地所并建家売渡証」が残されている。もとの大山家(ヤスさんは「もと屋敷」と呼ぶ)が、城の近く東仲ノ町(明石駅東、三井住友信託銀行のすぐ北)にあったことは「文久年間明石町之圖」に確認できる。一帯は武家屋敷が建ち並ぶ地であったが、廃藩置県で扶持(ふち)が途絶え暮らしが立ち行かなくなった元士族の屋敷は次々に田畑になっていった。「播磨国明石郡大明石村全図」(『明石城関連絵図資料集』)は、製作年は不詳であるが「明治16年3月縮之」とあり、明治21年に開通する山陽鉄道の軌道予定地にテープ状の薄い紙が重ね貼りされていることにより、ほぼ明治16年当時の屋敷地の土地割・土地利用の状況を示すものと考えられる。城の東側は水田が多く、西は畑地が主となっている。

大山家もと屋敷と桑原家「文久年間明石町之圖」

 大山家は、周囲の人家が減り治安が悪くなったため移転を考えていたところ、桜丁の桑原家が旧藩主松平氏とともに東京へ移ることになり桑原家を購入した。当時明石第五十六国立銀行に勤めていたヤスさんの祖父大山安治が購入した。「もと屋敷」は山口氏に貸して「山口旅館」(注)となり、駅前で便利がよいことから繁盛したようだ。
(注)「山口旅館」は「大日本職業別明細図第312号(昭和7年東京交通社)に載る。『兵庫県商工名鑑』(昭和14年)に「旅館業山口徳二郎錦江町」の記載がある。

山口旅館(「明石略図」明治44年)

 昭和20年、国鉄「明石駅」が戦災で焼けたとき、仮駅舎の建設地として大山家「もと屋敷」と隣接の当時旧藩主松平氏が所有していた土地は、国に坪1円ぐらい、ただ同然で買い上げられた。20年ぐらい後、国鉄がもとの場所に再建されたとき、その土地を買い戻すべく松平氏とともに嘆願したが叶わなかったということである。