享保建築の大山家・写真は昭和初期
『講座 明石城史』付図「播州明石城図」(藩主大久保季任)(1639〜1649)には当該屋敷地に「浅井善助」の名があり、『西摂大観』に載る「明石町図」(享保年間1716〜1735)(藩主松平直常)では「間宮」の名に変わっている。藩主が代わったためであろう。文久年間「明石町之圖」には「桑原」の名が記されている。享保6年建築ということは、享保の早い時期に「間宮」から「桑原」へと屋敷替えがあったと推測できる。明治16年の「地所并建家売渡証」の「売渡人桑原文蔵」家は、「御家中知行高并役附」(1731)に記載のある「百五十石御番組桑原龍右衛門」家のことと考えられる。「座並帳」では第4番目の格式「独礼格百五十石桑原駿次郎茂僚」である。「座並帳」には、桑原姓は他に第17番目の「御徒格」に「桑原啓三郎」の名が載るが、文久年間の「明石町之圖」の桑原家周辺の家々を「座並帳」に照らすと、「独礼格」から第8番目の「惣領二男三男御番組格」までであるため「御徒格」の家は該当しないであろう。
享保六年建築の家屋の間取り、屋敷図は松本ヤスさんと母の大山ラクさんの記憶による作図を基にした。間口約18.5間、奥行約15間、奥は少し広がりを見せ幅19間あり面積約281坪の土地に、主屋(42.5坪)と離れ(20.5坪)がある。「売渡証」には主屋(本屋)のほかに9坪の長屋と雪隠がある。離れは大山家が屋敷を購入後、大正末か昭和初期に建築しているが、長屋を壊した跡地に建てたであろうと推測される。『図録 近世武士生活史入門事典』などを参照すると、中級武士の屋敷として標準的な大きさであることがわかる。
享保6年建築 大山家屋敷図
桑原家のルーツを調べるため訪れた英三郎氏に、旧明石藩の歴史を説明する大山ラク氏(左)
主屋は敷地の南縁に南向きで建ち、門、玄関も南の桜丁の通りに面する。玄関を入って、左手が「表」、その北側が「奥」、玄関の右手が「勝手」となる。玄関は土間で上がり框(がまち)は畳敷きになっており、簡単な用事ならここへ腰かけて話をすます。略式の対面は次の「中の間」へ通し、主賓は10畳の「座敷」へ通され「中の間」は控室に使われる。座敷には「床の間」や「書院」があり、「文庫」に漢詩や謡の本が、「天袋」に古文書類が収納され、下段は押し入れである。座敷は正月や節句など祝いの場に使われ、ヤスさんの両親の結婚式もここで行われた。奥には仏間と3畳間が二部屋つづき、法事など人が集まる時には襖をはずして広く使う。玄関から右手は家族の居間や女中部屋がある。外の井戸で水を汲み、釜屋と土間、板間で台所仕事をして3畳で食事をとる。この辺りの井戸水は金気(かなけ)が強いため濾(こ)す必要があり、井戸のそばに濾し壺が置かれていた。化粧用(顔を洗う水)は雨水を受けて使った。外の便所は女中や男衆(おとこし)が使用していた。敷地の裏鬼門に当たる南西隅にお稲荷さんがあるがもとの住人桑原家が祀っていたもので、大山家では屋敷神は祀っていなかった。
座敷①(ひな飾り)
座敷②床の間(端午の節句 昭和11年頃)