(3)屋敷地の利用

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 大山家の地所面積は桑原文蔵より大山安治への「売渡証」では、「主屋、長屋、雪隠」「宅地2カ所3畝14歩(104坪)、9歩(9坪)、畑9畝13歩(283坪)」とあり、合計396坪である。図面の敷地281坪とでは115坪の違いがある。大山家では、時期も購入元も不明であるが、地続きの北側に200坪余の土地を買い足している。「播磨国明石郡大明石村全図」では「田」となっている土地であり、桑原家から購入した「畑」部分も合わせ、明治から大正にかけて大山家は田畑の耕作もしていたと思われる。離れの物置に唐箕(とうみ)や石臼など各種農具が収納されており、戦時中の食糧難の時代に敷地内の畑でさつま芋や大豆をつくるのに役立ったという。
 耕作地の大部分は、大正6年に開通した兵庫電気鉄道(のち宇治川電気鉄道)の軌道地になり、やがて昭和8年開通の神明国道(現国道2号)となった。つまり、大山家の敷地北側部分は鉄道(のち国道)によって分断されたわけであるが、分断された国道の北側の土地は昭和38年に手放すまで5軒分の土地を賃貸していた。屋敷図面の281坪と国道になった分と北の賃貸部分を合わせると600坪余となる。昭和初期に敷地内には果樹園のように、ミカン・ナツミカン・ネーブルなど柑橘類にイチジク・ナツメ・カキ・ウメ・モモ・ユスラウメなどさまざまな種類の果物があった。花もサクラ・タチアオイ・ユキヤナギ・クチナシ・カンナ・キクなどいろいろあり、野菜も作り、鶏や山羊を飼っていたこともある。
 この屋敷地は、『講座 明石城史』付図「播州明石図」(1649〜1679年)の屋敷地割りでは、間口「弐拾間」奥行「弐拾四間半」とあり、面積は490坪となる。同図では他の屋敷地も間口15〜25間、奥行22〜25間クラスのものが圧倒的に多く、明石藩の武家屋敷はごく一部の家老職などを除いて禄高に関係なく500坪前後の敷地を持っていたことがわかる。東仲ノ町の武家屋敷の発掘をした兵庫県教育委員会の山下史朗氏は「一般的に江戸時代の中級武士の屋敷地は250坪ぐらいであり、姫路藩では約200坪である。明石藩では約500坪もあり非常に広い」と述べている。出陣準備のためには有り余る広さである。廃藩置県後、屋敷地は間を置かず田畑になっているが、それ以前から広大な敷地の空閑地を利用して、野菜や果物を栽培していたのではないだろうか。松本四郎は『城下町』で、武家屋敷の建蔽率と空閑地の利用について述べ、松代の武家屋敷地の「奥行を二つに分け、道路側から宅地、耕地(大半は畑)としている」例を上げている。明石の場合もさらに調査事例を増やして検討することが課題であろう。

大山家の位置と広さ(大久保時代絵図を加工)『講座 明石城史』付図より