3 昭和初期の暮らし

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 享保建築の家屋の屋根は藁葺(麦藁)であった。昭和20年7月7日、旧明石市が壊滅的被害を被った焼夷弾攻撃の際は4軒先まで戦火が迫り、屋敷内の井戸水を近所の人たちがバケツリレーしてかろうじて焼失を免れた。戦火の直後さらに水害に見舞われて、土塀は壊れ鎧櫃などが流され、納戸にしまっていた家財や文書類も夥しく損壊した。『明石市史・下巻』によると、「昭和20年10月9日豪雨によって明石川・朝霧川が氾濫してほとんどの市域に浸水した。市内を南北に両断する国鉄の盛土堤によって、まず、国鉄北側の家々が床上浸水を受け、ついで以南の町々も浸水した。深い所では腰まで水につかった。家屋の床上浸水3,773戸、床下浸水2,295戸、バラック浸水2,070戸、家屋の全壊95戸、同半潰れ9戸、同流失11戸で罹災者は、32,552人におよび死者21人、重軽傷者26人がでた」という激甚災害であった。その後、大山家周辺は防火地区に指定され藁葺のままという訳にいかなくなったが、家屋が老朽化しており、費用もかかることから瓦を載せることもできず、藁の上をトタン板で覆っていた。トタン板の屋根ではあったが、破風に家紋の「四ツ目紋」を簡略化した「たたみ四つ目紋」を付けて家格を保っていた。家屋は神戸大学の野地修左氏が文化財として保存するかどうか調査したことがあるが、玄関など何ヶ所か改築していたし、指定を受けると生活していくのに不自由なので指定は受けなかった。

戦後トタン屋根になった大山家


たたみ四つ目紋

 井戸は昭和初期にはすでにポンプ式になっていた。昭和6年から旧明石市内全域に上水道が給水開始となり、飲み水や料理は水道水で、洗濯や風呂、打ち水には井戸の水を使っていた。藁屋根は毎年台風シーズンの前に補修する必要があった。職人は西河原(神戸市西区玉津町西河原)から馬車いっぱいに麦藁を積んできて、丸一日かけて屋根の棟の(カラスと呼ぶ)千木(ちぎ)に当たる部分に新しい藁を入れて締めなおした。便所の汲み取りは伊川谷(神戸市西区伊川谷)のお百姓さんがいくつも桶を積んだ大八車を牛に引かせて来ていた。肥のお代に野菜を貰えるというエコなリサイクルシステムであった。
 日々の買い物は、おおむね「通(かよ)い」という通帳を使って行っていた。生の魚は「金寅」で、アナゴは「大善」、法事などの時は「松庄」で大きなブリを買い背負って帰ってきた。振り売りも「とれとれのイワシえ〜、ててかむイワシえ〜!」とよく売りに来ていた。醤油は弓町の店、呉服は本町の商人が出入りしていた。大山家には、15〜20才位のねえやが一人か二人いて、子守や買い物、祖母の世話をしていた。ねえやは淡路から来ており、辞めたら世話人が次の娘を紹介するので、だいたい淡路からだった。藪入りはお盆過ぎの3、4日間と正月16日から3、4日間で、お給金のほか、饅頭などの手土産を持たせた。

呉服の通い帳

 ヤスさんの祖父安治の妻コウは、明石藩の普請奉行であった南部家から嫁いできており、武家の堅苦しい考え方が身についていた。方角やお日柄の良し悪しなどに重きを置き、年中行事なども戦前は旧暦で行っていた。祐筆は、文章の代筆、公文書や記録の作成を行うだけでなく藩主の秘書役でもあった。大山家は明治以降、旧藩士の組織が始まりである葵会や藩主松平家の祖を祀る明石神社の世話もよくして、東京在住の松平家に頼りにされ、日光東照宮への代参なども任されていた。ヤスさんの父登は亡くなる時、妻のラクに大山家のことは何も言わず「松平家のことを頼む」と言い残したという。
 *大山家年中行事の聞き取り調査報告は、各論3「城下町の年中行事」の項にあり。

明石神社にて(左端が大山安治氏)大正末