1 鍛冶屋町の概要

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 明石城下町の建設初期の町屋数は、『町割年号記』によれば、東から鍛冶屋町・細工町・東魚町・東本町・西本町・西魚町・信濃町・東樽屋町・西樽屋町・明石町の10ヶ町であった(材木町を加えて11ヶ町とする説もある)。これらの町屋は西国街道に沿って並んでいて、町屋の東と西には職人町(東では鍛冶屋町)が配置されている。また、東端の出入り口の「京口門」には番所を設けて人や物資の出入りを監視し、朝顔光明寺という寺院を配置して街道口の警備を強めていた。この町割については、宮本武蔵が行ったことが定説になっており(『金波斜陽』)、町屋の奥行は16間となっている。
 元和年間から70年後の天和2年(1682)には明石総数1358軒で、うち本家732軒、借家900軒であった。その後享保年間(1716~1736)には町数も15ヶ町に増え(図1・図2)、享保6年(1721)には明石総数1903軒で、本家822軒、借家1081軒となった。なお、鍛冶屋町に限定すれば、総数110軒(本家51軒・借家59軒)人口474人(男256人・女218人)で、京町・炭屋町・会所町・門井・溝石橋・溝板橋などの記載がみられる(『明石記』)。

図1 明石城下十五ヵ町概略図


図2 享保年間の明石城下図

 このように、鍛冶屋町の原型は小笠原城主時代に形成され、東の大蔵谷の宿場に隣接していたこともあり、その後、鍛冶屋職人の町として栄えていたことを窺うことができる。
 明治になっても街並みは江戸時代とあまり変わりなく往時の姿を偲ばせていたという。明治時代には金物店より農鍛冶が多く、クワやトンガなど農機具専門に修理する町の鍛冶屋で、道もカギ形にまがるなど城下町の街道らしい特色があったという(『あかし昔がたり明治編』)。
 ここで、住居表示が変更になる以前、江戸時代からの鍛冶屋町の範囲を記入してみると図3のようになる。東は光明寺から西は銀座通りを挟んで1本西の南北に至る範囲である。観光道路の南北には光明寺、その南にはかつての料理旅館や旅館があり、北の西国街道沿いが鍛冶屋町の中心となっている。昔の名残として銀座通りの北西に鍛冶屋町会館が、同じく南西に鍛冶屋町の地蔵尊が祀られている。

図3 平成18年(2006)の鍛冶屋町