≪明治期≫

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 『あかし昔がたり明治編』に登場する伊川幸治郎さん(昭和52年取材当時92才)の話から、明治の頃の鍛冶屋町についてみていこう。まずは北側から、
 ・農鍛冶は、現在は田中荒物店になっている「淡七」、その西隣の「東田」。「東田」はそのまま現在の東田金物店。当時のクワは木製で先端にだけ鉄の歯がついていた。
 ・「東田」や「淡七」の並びに米屋があって水車が回っていた。今の林眼鏡店あたり。この水車がかかっていた小川は明石城の掘割の水だった。
 ・今の赤松佐一郎さん宅は「伊東」いう傘屋だった。
 ・丹波屋金物店は「正司」というクワの柄、カシの木を加工して売っていた。
 ・近野タタミ店の西隣には「東大工」があり荷車を作っていた。
 ・その西が鉄工所、荷車の木製のタイヤ「輪がね」を作っていた。
 ・さらにその西には「呉錦堂の借家」があった。呉錦堂は舞子の移情閣の主人。豪商で、花街ビルから桜町一帯が「呉錦堂の借屋」だった。子どもの頃、そこは「前田アラメ製造」になっていて荒布コンブの干場でよく遊んだ。
 
つぎに、南側へ。
 ・現在まで続いている福井鉄工所が最も古く、鍛冶屋町らしい店で、吹子(ふいご)も置いていてコンコンやっていた。
 ・その西隣が「十河米店」、東側が「北條陶器店」で、北條さんは当時からずっと続いている。その東に土蔵があり、すぐ朝顔光明寺が続いていた。寺の東は城の外堀の水が合流して海へ流れる掘割だった。
 ・掘割が街道を横断する所の橋は「ドンド橋」といっていた。
 ・私とこの「豆腐屋」には、神戸市垂水区の名谷、奥畑、多聞、伊川谷町の太山寺、前開、長坂、別府からも買いにきてくれていた。当時、豆腐屋は多く旧市街で37、38軒あった。特に魚の棚に7、8軒あった。
 なお、伊川さんの話には出ていないが、明治16年の『神戸兵庫明石豪商独案内の魁』に「鍛冶屋町大工道具諸金物商藤本清治郎」の名が見られる。また、銀座通りから西には江戸時代から続く「大村醤油店」があった。

図4 明治の鍛冶屋町(伊川さんの復元図)