昭和初期の鍛冶屋町・町並図(図5)に「養気亭カフェー」がある(写真1)。
図5 昭和初期の鍛冶屋町
写真1 養気亭カフェー
田中屋金物店の前主人・田中庸介が生まれた大正元年頃に開店したそうである。付近には10数軒のカフェーがあり、その中で随一といわれ全盛期は15人もの女給さんを抱え、しもた屋風の店構えも年を経るとモダンな洋風に改装。店内もじゅうたん敷き、ソファへ変わったという。その「養気亭」は昭和11年には人手に譲り、現在の田中屋金物店に転業する(『あかし昔がたり大正編』)。他に大正期を物語るものとしては、大正8年(1919)11月9日から10日間、陸軍特別大演習のため軍隊(人員9100・馬150が全市民家に宿泊し、11月12日には天皇と皇太子殿下が和坂稲荷山で統監せられた(『明石市史下巻』)。軍隊の一部が鍛冶屋町にも宿泊し、その時の宿泊割の地図も残されている。また、詳しい話は後述するが、鍛冶屋町の地蔵尊の夏祭りの書類(会計帳 大正11年 写真2)も残っている。
写真2 会計帳 大正11年
昭和戦前~戦中
上述の昭和初期の鍛冶屋町の町並み(図5)には、明治期の商店がかなり存続していることがわかる。北側では、東から柏木鉄工所、正司鍬、淡清金物、淡七金物、東田金物、池内たばこなど。南側では、東から北條陶器、福井金物、丹波屋伊川とうふ屋、柏木さとう屋、大西薬屋などである。また、錦江橋から内海に面した海岸には旅館や料亭が並んでいる。当時の市内地図(昭和4年図6)と合わせて見ると、当時の鍛冶屋町の様子を伺い知ることができる。
図6 明石市街全図 昭和4年 明石商工会議所 発行
戦中の鍛冶屋町の様子を知る資料として、「防空演習」の写真3(昭和15年頃)が残されている。その解説(『写真アルバム昭和の明石市』)には、「昭和14年以降は、軍の警報発令に応じて、実践的総合訓練が繰り返された。警報伝達、防空消防、灯火管制の徹底など、全市一体となって緊張感の中での実施だった。
写真3 防空演習(昭和15年頃)
服装もしだいに男子は国民服に巻脚絆、女子は筒袖にモンペ姿が日常着となり、防空頭巾が必需品にたった。」と戦中の生活の様子が述べられている。なお、市立文化博物館には、当時の「国(民)婦(人会)鍛冶屋町班」の看板が寄贈されている(写真4)。
写真4 「国婦 鍛冶屋町班」の看板