当時の資料として昭和33年の地図(図7)から、その様子をみていこう。
図7 昭和32年頃の鍛冶屋町
観光道路は未だ完成していない頃の地図で、前述の昭和初期の地図(図5)と比較してもわかるように、駅前の大火後できた明石銀座の左右の商店を除くとほとんど大きな変化は見られない。当時の鍛冶屋町商店会の記録(『明石商店街連盟20周年史』)よれば、昭和34年11月1日の市制40周年記念行事には、連盟役員一同で当時流行の「ダッコチャン」(写真5)に扮して出場、踊りを披露、昭和44年11月1日の市制50周年には、連盟役員並びに婦人部計50名で河童に扮し「河童踊り」に出場している、共に上位入賞を果たすなど商店会の勢いが漲っていた姿が描かれている。また、当時の情景として、「昔の鍛冶屋が金物店に変形した店を中心に形成され、少数乍ら何れの店も古い老舗を誇り、家屋も100年以上経過したものが多く、今だに昔乍らの紋入り瓦の上にペンペン草が生え茂り情緒ある店もあり、遠方より珍しさのあまり見物、又写真を撮りに来る人々も多い。」と田中庸介会長は語っている(昭和47年)。さらに続けて、「この商店街も市計画の銀座東地区都市計画開発の区域内に入って居り、やがて新しく生まれ変わろうとしている。我々も又出来るだけ協力し、新しい町づくり、商店街づくりに努力してゆきたいと思っている。」というコメントを残されている。なお、当時の鍛冶屋町商店会の会員は、大西薬店、明鳳堂、東田商店、田中屋、淡清金物店、丹羽屋金物、中川雑穀店、ハヤシ眼鏡店、福井金物店、北条陶器店、樽屋高尾商店の11店であった。
写真5 ダッコチャンに扮した鍛冶屋町の人々
西国街道に面した鍛冶屋町から南(浜光明寺の南)には、釣客や商売人相手の数軒の旅館や料亭が軒を並べていた。当時の様子を小説家・今東光が『春泥尼抄』(昭和34年)に描いている(写真6)。
写真6 かつての料理旅館街
「明石や」「此処が明石ですの」春泥は物珍しそうに眺めた。しかしながら物語にある明石とは、およそ違う明石の街だった。海辺の瀟洒な料理屋の前で車が止まった。二人は二階に通された。「わあ。好い眺めやこと…」座敷に座ったままで、直ぐ目の前に淡路島が浮かんでいた。かすかに岩屋のあたり、人家さえ見えるのである。「この家は五十年以上やってる料理屋で、美人の娘さんが居るねん」「そう」「知事さんも来る家や」康雄は得意そうに語った。
平成元年(1989)当時の鍛冶屋町の建物を記録保存するための調査が、明石市教育委員会と明石工業高等学校建築学科(八木雅夫氏)の手で行われている。その記事(神戸新聞平成元年1月4日付け)によると「この日調査したのは鍛冶屋町北條陶器店の店舗。同町には城下町の商家の風情がある建物が十数軒残っているが、北條さん方は江戸時代から続く商家で、現在の建物は明治20年頃に建てられた。間口約11m、奥行き約34mで、2階には虫籠(むしこ)窓があり、江戸・文化文政時代の様式による伝統的な商家造り。」とされている。
写真7 北條陶器店建替え前
図8 北條家図面