呉錦堂(ごきんどう)と借家

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呉錦堂(1855~1926)舞子の移情閣を建てた華僑(明治37年に日本に帰化)
 鍛冶屋町の調査中、「明治の鍛冶屋町伊川さんの復元図」(『あかし昔がたり明治編Ⅱ』(神戸新聞明石版昭和53年2月17日付)の中に偶然、「呉錦堂借家」を見つけた。友人に相談して「呉錦堂を語る会」の橘雄三氏を紹介して頂いた。
 橘氏によると、以前から「呉錦堂が明石にたくさんの借家を持っていた」と聞いていたが、その根拠となる資料を見つけられずにいたが、今回の伊川さんの復元図をもとにして旧土地台帳でそれを確認することができたそうである。

写真8 呉錦堂の借地だった所(推定)

 鍛治屋町土地取得明細によると、取得年月日は明治45年(1912)5月28日付けで魚住又一から呉啓藩(呉錦堂の長男)へ。昭和14年(1939)4月26日付で白川一郎氏と村上弥一郎氏へと譲渡されていたことが確認できた。なお、魚住又一郎氏については、桜町の白雲通りにある「白雲櫻碑」に私財を投じてこの界隈の開発をおこなったと記録されている人物で、今後、さらに調査していく予定であるとのこと。詳しくは「呉錦堂を語る会」通信No.38参照のこと。(山下俊郎:「白雲桜の碑について」『歴史と神戸』第35巻第2号1996年の論文も参考になる)