「北條窯」があったことの印として、蓋に蛸があしらわれ、注ぎ口に「北條製」と記された大きな急須が残されている。
写真13 北條製の急須
平成元年3月に実施された北條家宅調査の新聞記事(3月5日付)と建替え前の北條陶器店の写真を見せていただき、当時調査を行った明石工業高等学校の八木雅夫先生(現国立高専機構教授)に連絡し調査図面を入手した(写真7 建替え前の北條陶器店 図8 平面図と断面図)。また、明治40年代の北條陶器店の商圏が理解できる「売掛台帳」(写真14)がある。それによると、東は神戸・大阪・東京、西は、東播磨-別府・加古川・高砂、西播磨-竜野・姫路・上郡、備前-倉敷・玉島、四国の讃岐-丸亀、徳島―撫養、伊予―八幡浜、九州-長崎、南は、淡路-岩屋・仮屋・郡家・湊・育波・江井など、紀州-田辺、北は三木・西脇、明石付近では江井島・東二見・金ケ崎などの地名が出てくる。販路の多くは、明石港から船で各地の港へ運搬されていたこと、一部内陸へは川を遡って運ばれていたことが推測される。
写真14 売掛台帳