かつて、浜光明寺と朝顔光明寺は墓の部分でつながっていて境界はよくわからなかった。観光道路が作られて、二つの寺に境界ができた。図4に示した空き地の広さは畳2~3畳分くらいで物干しがあった。商家はどこも縦に長く、建物の片側を通路にして、大八車で荷物を運べる(通り抜ける)造りになっていた。今の保健センターは、子どもの頃、コミセンだった。結婚式も行われていた。谷上カメラになる前は「つるや」といい乳母車などを売っていた。また、内海に面して、ハマヤ旅館があった。釣客や軟式野球の宿泊旅館だった。貯木場では、丸太に乗ってよく遊んだ。
図9 纐纈弘子さんの子どもの頃の記憶
観光道路が出来る前、二つの寺の境界は曖昧で、墓地でつながっていた。東西とも細い路地があり、ここから墓地に入ることが出来た。細い路地があるだけで、どん詰まりになっていた。