≪大村醤油屋≫屋号「カミヤ」

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 1993年当時で7代目。江戸時代は明石城に鬢付け油を納めていたと伝えられており、江戸末期から「紙周」の名で醤油を製造、小売りをしていた。醤油蔵新築時(大正時代)の「屋敷平面図2枚」があり、「この家屋敷は、本家柏木源右衛門方に質流れになっていたものを、天保10年(1839)、周輔重昌の代に買請けた」とある。「本家柏木源右衛門」家とは、『帝国実業名鑑』(1895)にある「売薬薬種商東本町柏木忠兵衛」家のことであろうか。大村ちよ氏(大正15年生まれ)からの聞き取りによると、昭和6年からは醤油のほか、食料品も扱っていたそうである。『兵庫県商工名鑑』(1939)に、営業種目食料品・和洋酒・醤油・漬物大村周治鍛冶屋町との記載がある。戦後、化粧品店になる。ずっと昔に、薬師寺さんという紙屋から、大村家へ嫁に来たという話がある。薬師寺さんの番頭が岸本文具店を開いた(『帝国実業名鑑』によると、薬師寺卯一郎が中町に書籍商、樽屋町に支店の紙印刷業を営業している)。醤油を製造していた頃、住み込みのボンさん2人、女中さん2人が淡路から来ていた。仕込みの時には、二見の方から男衆が2、3人来ていた。ボンさんの食事は家族より後で、台所の上がり口で箱膳を使っていた。ボンさんの着物は、アツシ(厚子)という分厚い木綿の縞柄で、洗濯するときはタワシでこすって洗った。「帆前かけ」という丈夫な前垂れをし、頭に鉢巻きをしていた。
※≪柏木鉄工所≫≪福井金物店≫≪大村醤油屋≫の聞き取り調査は、竹村清子氏によって1993年10月に行われたものである。

図10 屋敷平面図