目次
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各論
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2.町屋
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暮らし
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東本町
≪鷲尾長三≫
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前ページ「表」の末尾に名前がある鷲尾長三は、江戸時代東本町にあり代々明石藩の御用酒屋であった常本屋(明治初め頃に他の手に渡っていた)を譲り受け、多田屋の屋号で酒造業を営んでいたが明治20年頃に廃業している。この頃の様子が『神戸兵庫明石豪商獨案内の魁』(明治16年)に「鷲尾長三 酒類製造所」として描かれている。銘酒「幸」(本町の北にあった旧町名に由来するのであろう)の看板と「○長」の暖簾が掛り、軒先に杉玉をつるした大きな酒蔵で、角地にあって脇道には大きな桶を干している。その後、帆木綿の製造販売を行っているが、不詳で、明治の中頃にはロシア貿易を行い、ロシアからマッチの原木を輸入して財をなしたといわれている。この頃、神戸では燐寸工業が盛んとなり、重要な輸出商品となっていた。明石においては明治18年10月、明石駅近くに初めて明燐合資会社が興り(明治34年~42年、鷲尾が業務を継ぐ)、28年7月には鷲尾長三工場が設立(27年開業とも)されている。『兵庫県統計書明治38年』附録によると、鷲尾工場は明石郡内の燐寸工場・燐寸軸木工場・燐寸小函工場合わせて15工場のうち最大規模で、289人の職工がいた。『同書 明治42年』による職工数は、鷲尾明燐合資会社が85人、鷲尾長三工場が310人である。箱に貼るラベルにも拘りがあり、約70枚のラベルが鷲尾長三の名前で商標登録されている。製品は主にカルカッタ(インド)やラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)に向けて輸出された。鷲尾長三の屋敷地は明治26年から東本町の東部、本町通の南にあったが、大正9年に五十六銀行へ渡り、昭和12年には神戸銀行の所有地となった。工場は大明石村に3ヶ所あったが、大正11年7月に休業、その後暫くして再開したようだが不詳である。長三は大正4年3月30日に亡くなり、人丸山の西麓本松寺に葬られた。
鷲尾長三『神戸兵庫明石豪商獨案内の魁』
(明治16年)西尾市岩瀬文庫蔵
鷲尾長三が商標登録したラベル(牡丹蟹)
広告(明治38年『明石舞子の古今誌』)