≪いかりや中崎呉服店≫

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いかりや白井良介『神戸兵庫明石豪商獨案内の魁』(明治16年)西尾市岩瀬文庫蔵

 大正10年頃、中崎種市が、白井呉服店からの暖簾分けで、「いかりや」の名前で商売を始めた。種市はこの白井呉服店で丁稚奉公を2年程つとめ、店が解散する時に暖簾分けをしてもらった。後に大阪で吉本興業の社長となる林正之助とは丁稚仲間であった。白井呉服店は、西本町で明治20年に開業した呉服太物商「いかりや白井良介(助)」から発展し、三つの白井が生まれ、これらが一つとなった「合名会社白井呉服店」のことである。明治40年にはすでに合名会社となっていて、大正元年には東本町に、当時では珍しい総2階建ての蔵造り風のビルを建て、屋上からの眺めも自慢であった。この跡地は戦後、映画館となり、現在は大衆演芸「三白館(みはくかん)」となって賑わっている。
白井呉服店(大正元年)
白井呉服店(大正元年)
中崎種市氏
中崎種市氏
広告(明治38年『明石舞子の古今誌』)
広告(明治38年『明石舞子の古今誌』)
「明石町商工人名」(明治31年)に載る白井三店
「明石町商工人名」(明治31年)に載る白井三店

 種市は独立後、反物を風呂敷に包んで自転車で得意先を回る“回り屋さん”をし、遠くは高砂の鐘紡工場の女工さんの寮にまで出かけていた。終戦後すぐの昭和21年、家屋疎開や空襲により何も無くなっていた現在地に尾張屋(道具屋)さんから間口3間、奥行20間の土地を買い、家を建てて店構えの商売を始めた。この付近では、焼け野原の中での最初の建物であったという。敷地内には3つの井戸があり、洗濯や冷房用などに使用していたが、周囲で大量に地下水を汲み上げるようになると塩分が混じるようになった。
 昭和24年に種市が亡くなった後は、妻のきみが商売を引き継いでいたが、平成4年に89歳で亡くなった。

今も引き継がれる「いかり」の印