細工町

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 現在、多くの観光客で賑わう「魚の棚商店街」の東端部分にあたり、商店街の路地を北に入った所に祀られている「厳島弁財天社」を中心にして栄えた町である。江戸時代には町の東と北に明石城の外堀があり、東側には橋が架かり、城内の武家屋敷地への出入り口である「細工門」があった。享保6年(1721)の記録では、77軒の家があり、324人が住んでいた。しかし、昭和20年7月7日の空襲によって全焼し、戦後、バラックが立ち並ぶ自由市場(闇市)として賑わっていたが、昭和24年2月の駅前大火によって付近一帯は再び焼失した。この二度の火災によって「細工町」の歴史を伝える資料類が失われ、また、往時を知る方も少なくなり、昔の家々の歴史や屋号などのお話しをお伺いすることはできなくなっていた。文久3年(1863)銘の手水鉢が据えられている「厳島弁財天社」が江戸時代からの町の移り変わりを見守っている。明治期の「商工名鑑」類に掲載された細工町の店や人物をみると、明治16年に「内外科医」の湊謙一、明治31年に米穀商「濱田屋」の中田利一郎と染物業の藤尾梅蔵、明治40年に新聞広告取扱「倣蟻社支店」の立花清五郎の名前がある。また、明治44年に刊行された『明石と舞子』には、旅館及料理屋として「清風軒(西洋料理)」と「榮福楼」の広告がある。

享保年間の明石城


厳島弁財天