明石城の正面である太鼓門から南に下り、追手門の外、外堀の南側に接して東西に設置された町屋である。他の町屋と同様に、奥行は16間(約29m)が基本となっていて、間口は6間(約11m)の家が多かった。享保6年(1721)の記録では、89軒、446人が住んでいた。平成2年5月、明石市教育委員会による発掘調査で、溝内から「林兼」の焼印がある木札が出土した。「林兼」は、中部幾次郎が築いた大洋漁業(現在のマルハニチロ)の前身「林兼商店」のことである。江戸時代末期の頃から「林兼」の名前で東魚町に店があり、明治期に大阪への鮮魚運搬を動力化したことにより発展の基礎を築いた。明治35年には下関に営業拠点を移し、事業を全国に展開した。「木札」と共に出土した「焼物」からも江戸末に開業されたことが裏付けられる。さらに江戸時代末から今日まで営業されている「松庄」がある。明治時代から今日まで続く屋号は、明治5年に開業された林喜八の「林喜」、明治後期に開業した「大黒屋」「鯨安」「魚秀」がある。さらに、明治期の『商工名鑑』類には、魚商(魚問屋)として、有庄本店・柏木太助(多聞屋)・菊池徳次郎・高月和助(木綿屋)・林儀兵衛・林半右衛門(濱田屋・林半)・林田久治郎(林久)があり、蒲鉾・竹輪などの食料品の店として、中井和吉・三浦常吉(丹吉)の名前がある。三浦常吉は旅館も兼ねていた。
林兼木札
松庄・林喜