この町は古くは信濃町と呼ばれていた。元和3年(1617)、明石藩初代藩主小笠原忠政(忠真)が信濃国(長野県)松本から明石へ入り城下町が建設されると、前任地松本から伴った商人たちが、城や街道・港に近いこの場所に住んだことから信濃町と名が付いたという。小笠原氏が小倉へ転封後、第4代藩主大久保季任の頃(1639~1649)に中町へと改名された。
享保6年(1721)調べでは36軒、168人が住んでいて、明石城下惣町15町の中では最も小さな町である。
この町も、昭和20年7月の空襲により町全体が焼失した。
屋号の悉皆調査の結果、「亀井堂」と「鍵屋」が江戸時代から続く屋号であることが確認できた。
鍵屋
菓子製造の「亀井堂」の設立は、寛政7年(1795)に設立され、現在までで11代に渡る屋号である(初代の亀井堂は、現在の本町2丁目7の24番地)。なお、9代目による店舗の模写絵が保存されている。
亀井堂
亀井堂の広告(明治36年)
「治屋(かじや)」私が中町の屋号調査で初めて訪問させて貰ったのは、平成29年7月19日であつた。その屋号の看板を見て、何となく時代を感じたことを思い出す。また、突然の訪問にも関わらず御夫婦の歓迎に今でも感謝している。当宅は「治屋」で初代は、現在の本町1丁目8番23号に「畳材料」店として天保6年(1835)開業したことが過去帳によって確認できる。さらに初代から「鍵屋・治屋」を引き続いて今日に到っていること、当地では空襲によって「中町」の町が全焼したが、戦後になって「畳材料と日用雑貨店」として立ち上げ今日に到っていることなどの話を伺った。
明治期の「商工名鑑」類をみると、16年に帆木綿・敷物商として名前がある大前平兵衛は、18年に酢「朝霧」の製造へと業種転換し、それまでの木綿・敷物商は新たに「支店」を立ち上げ、引き継いだことがわかる。また、江戸時代より続く足袋商の葛西太助(いの熊)は、31年には木綿商「井上屋」へと変わっている。16年に書林商「紙卯」があるが、これは23年以降に名前がある書籍・印刷業の薬師寺卯一郎(文林堂)の前身と思われる。他に、①呉服商の助定、②糸物呉服商竹田市兵衛、③木綿商山本宗兵衛(山本屋)、④蚊帳木綿・綿類の山崎國松、⑤履物商住谷健吉と田中幾松、⑥琴・三味線商石村喜助(大屋)、⑦米穀肥料仲買で明治13年開業の井上佐八郎、⑧時計商竹内束、⑨荒物商立花新蔵(鍵屋)⑩清酒醸造橘平右(左)衛門、⑪萬問屋で20年開業の藤井静哉、⑫油・畳表商で明治10年開業の長谷川松兵衛(二見屋)、⑬紙・砂糖商長谷川安兵衛、⑭旅館業の古谷虎雄(眞葛旅館)と安井コマ、⑮小間物商で教育玩具を扱う安利商店、⑯自転車商丹羽忠雄、⑰新聞売捌所梅英社の名前が掲載されている。
なお、旧街道の一部に「杉本大神」があり、当時の街道の姿を垣間見ることができる。「杉本大神」は元は「石炭山(現在の本町2丁目8番地)」に所在したと言われている。
橘商店
杉本大神